「まじか」

 六限の中頃から降り出した雨は私の願い叶わず、ホームルーム中に止むことはなかった。むしろ様子を見るかぎりでは、勢いを増しているようにも思える。昇降口から仰ぎ見た鉛色の空には、重々しいほどの雲が重なっていた。
 いつもなら仕方が無いと相合傘をしてくれる友達も、今日は私が課題を出し忘れたことによる居残りで先に帰ってしまった。家までの距離は時間にして十分程度。濡れるのを覚悟で走って帰れば、すぐに温かいシャワーとタオルが待っている。周りをみても友達どころか生徒自体がいない。ガランとした薄寒い昇降口の地面に、意を決してローファーを落とす。
 家に帰れば温かいシャワーにふかふかのタオル。目の前の状況を打破したあとのことだけを思い、ローファーに踵を押し込める。戦地に赴く戦士の如く、ゆっくりと目を瞑って心を落ち着かせた。よし、目を開けたらすぐさま戦場に足を踏み入れるのだ。脇目も振らずにただただ前だけを見て進むのだ。勢いをつけて地面を蹴ろうと固く閉じた目を開こうとしたその時。

「オイ」

 先ほどまで誰もいなかった昇降口に、無機質なコンクリートに反響するように、男の人の声がした。聞いたことがあるようで無いような、そんな声は確実に私に向けられていて、恐る恐る目を開けると、目の前には予想だにしない人物の姿がそこにあった。

「……影山君?」

 目の前には怪訝そうな顔をして私を見下ろすクラスメイトの影山君がいた。同じクラスなのにあまり話したことのない彼をこんなにも近くで見たのはこれが初めてで、予想以上の背の高さに少し驚いてしまう。

「影山君、部活は? えっと、バレー部だったよね」

 すっかり先ほどまでの戦闘体制が解けてしまった私は、目の前の影山君が入学したばかりの頃を思い出す。いつも寝てばかりいる影山くんの事をクラスの子が「バレー部に入部させてもらうために早朝から練習をしているらしい」と言っていたことがあった。あの時は高校生にもなると入部もそう簡単なものではないのだと思ったが、どうも込み入った事情があったらしい。これも同様にクラスの子が言っていたことで、詳しいことは私もよくわからない。

「今休憩。お前、帰宅部じゃねぇのか」
「えっと、帰宅部なんだけど、今日の課題やってなくて……」
「……ああ、居残りか」

 私が帰宅部なことを知っていたことに少し驚く。一呼吸おいてから合点がいったらしい影山君の言葉は、居残りを馬鹿にしているわけではなくてただの独り言のようだった。

「でももう帰るよ! 影山君も部活頑張ってね」

 部活の休憩ということはあまり長いものではないはずだ。そうであるなら長く引き止めてしまうのは申し訳がない。外を見ると雨はより勢いを増していた。土砂降りだ。これからこの中に飛び込むことを思うと気が滅入るけれど、これも朝の天気予報を見ずに傘を忘れた私が悪いのだ。一つ溜息を吐いてから、深呼吸をする。

「お前、傘ないのか」
「え、あ、うん。でも走って帰ることにした」

 私の手元に視線を向けて、傘がないことを確認した影山君。課題も忘れて傘も忘れたなんて。なんだか恥ずかしくなって無理矢理笑って「家も近くだから」と言い訳をする。

「ちょっと待て」

 私の横をすり抜けて、数ある下駄箱の中から迷うことなく一つのところへ手を伸ばした影山君。私はというとその光景をただただぼうっと見つめていた。

「これ、使ってけ」

 多分影山君の下駄箱であろう場所から取り出し、私に差し出されたのは綺麗に畳まれた黒の折りたたみ傘。

「や、だって影山君はどうやって帰るの」
「俺が帰る頃にはやんでるだろ」

 斜め上を向いてそう言った影山君がどんな顔をしているかなんてわからなかったけれど、外を見る限りではそんな気配はない。むしろもっと酷くなってしまいそう。影山君の家は物凄く遠くかもしれないし、やはり申し訳なくて簡単に受け取ることはできない。借りたいけれど、申し訳ない思いから差し出された傘に手の平を向けて拒否の意を示す。

「貸してやるっつってんだからいいんだよ!」

 一向に受け取ろうとしない私に、痺れをきらしたかのような大きな声でそう言って傘を私に押し付けてきた。声の大きさに少しびっくりしていると、それに気づいたのか気まずそうに斜め下を見る影山君。

「わり……とにかく、俺もう休憩終わるから」

 無理矢理傘を私の手に持たせた影山君は、気まずそうな顔をしたまま踵を返して走って行ってしまった。
 きっと影山君は勘違いをしている。声の大きさに私は少し驚いてしまっただけなのに、それを怒られて怖がったのだと思わせてしまったんだ。誤解を解きたくても彼はもう体育館の方へ走って行ってしまった。私の手には彼の優しさが乗せられたまま。
 止む気配のない雨空の下にでて、ばさりと黒の折りたたみ傘を広げてみる。ぼたぼたと傘に雨粒がぶつかる音がした。予定は変更。このまま帰って、家で温かいコーヒーでも飲んで暫くしたら、もう一度ここへこよう。次は私の傘と、この折りたたみ傘を持って。その時に、さっきの誤解を解こうと思う。
:)130817

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