こんな、ばかみたいだ。 「あ゛、ァ」 俺はそれでもナツが好きでたまらないのだ。気持ち悪い。気持ち悪い。 「ナ、ぁ、がァア、」 くるしい。喉は焼けるように熱く、なんてものではなかった。喉の中へ何かが侵入し、内側から喉を削り取られていくようだ。 がりがりがりがり。 うえの方からしたの方へと自然にそれは俺の体内にようやっと、というようにおさまっていく。 がりがりがりがりがりがりがり。 喉の感覚はもうなくなってしまった。声はだせなかった。出るのはわずかな二酸化炭素と、しゃべれなくなってもなお渇いた口内を潤そうとあがく愚かな唾液だけだった。 俺は泣いていた。もちろん痛覚を刺激されたことによる生理的な涙もあっただろう。しかしなにより、俺はこんな状況にあってもナツをあいしナツの為にいのちをおとすのをよろこんでいる自分への情けなさで、白んでくる視界が一畳半の部屋に充満する気体のためだけではないと悟るのだ。 天井の中心からはもくもくと雲のように圧迫感のあるけむりがあふれでてくる。俺はついに体を横たえてしまった。心臓がいたい。いや、全身がいたい。痛覚は俺の身体を蝕み、そして俺の中のこころの痛覚もまた全身にゆきわたり、これ以上あがくのは無駄以外のなにものでもないと宣告していく。 壁も天井も床もすべて白で統一されたこの部屋はひどくきれいだった。瞼を閉じれば粘着く暗闇が待っている。瞼をあければあふれる白がまっている。俺は確かに、恐怖のようなものを感じた。 床があたたかく感じる。ついさっきまでの俺のわずかな体温しか残っていない床が、まるで電気カーペットのようだ。じわりじわりと、それはやはりつめたくなっていく。俺と、いっしょに。 「散布終了、散布終了。部屋の電源をすべてオフにします、部屋の電源をすべてオフにします」 機械音のアナウンスが静かな部屋に響き渡り、部屋の電気がおとされる。ぶつっ、という乱暴な音とどうじに部屋は暗闇で満たされる。まっくら、だ。 全身が麻痺し、痛みもさほど感じなくなってきた頃、俺はふと考えた。 まるで保健所でもののように処分される犬や猫のようだ。約7日間の猶予(1日ずつ近付いてくる死への恐怖とたたかいながら動く壁と職員の誘導により次の部屋、次の部屋へと移動していくその時間ははたして猶予というほど良いものなのかはさだかではない)はないものの、炭酸ガス(俺は炭酸ガスではないが苦しみはいっしょだろう)で悶え苦しみ白目をむいて舌を出し泡をふいて体中を痙攣させ、みにくい姿を散々晒して死体はまとめてガス室から焼却炉で燃やされる。猫は袋につめられてガスを投入、だっただろうか。名ばかりの安楽死はいつの時代でも自己中心的な人間のせいで続いてしまっている。どちらにしても、動物達がまだ生きたいと抵抗した爪痕はどの部屋にも残っているのだ。 抵抗。俺も抵抗できればよかったのかもしれない。しかし俺にとって死への抵抗は無意味なものであった。生きたかった訳でもない。死にたかったわけでもない。ただどちらの選択もできると迫られ、よわい俺は死を選んだだけだった。これは死への望みとはまた違う、ただの選択だったのだ。 もうぴくりとも動かない。脳が俺に残りわずかな生をしらせてくれる。生きたい、と、願えればよかったのだ。ただそれだけで、俺のまわりには俺を好いてくれる家族や友人がたくさんいた。 しかし、それらすべてを炭酸ガスで死んだ動物の死体のように焼却炉で灰にさせるくらい、俺はナツをたしかにあいしていた。今もあいしているのだが、もうじき俺は死んでしまうので過去形になるのは許してほしい。 ナツに対しての抵抗といえば、俺が目を開いたままだということだろうか。あらかじめ、俺の目を伏せるのはナツがいい、と最後のわがままをあいつに言っておいた。約束は必ず守るたちなので、きっとあの大きく骨ばった男らしい手で俺のひとみを暗闇へともどしてくれるのだろう。 だいすきだった。けんかだってたくさんした。殴り合いからちいさな口げんかまで。たくさん、たくさん。けれど俺の中のナツの存在はとどまることをしらず、ついにこんなところまできてしまった。 迷惑だなんて、わかっている。俺がいちばんわかっている。 それでも俺はナツが目を伏せてくれるならそれでよかった。ナツが生きてはいない俺の顔をみてくれるだけで、俺は死をえらぶことができたのだ。 ああ、けれど。 さびしい。さびしいのだ、すごく。つめたい。寒い。 ほんとうは生きたかったのかもしれない。ナツと生きたかったのかもしれない。今まで通りとはいかずとも、ナツはきっと太陽のように笑ってくれるはずなのに。 どうしようもなくこわい。恐怖は俺をどんどんひとりにさせる。まっくらやみは俺は飲み込み孤独へ追いやり、そして死をじわりじわりと感じさせた。ここまできて、そんな。こわい、だなんて。情けないとナツに言われるだろうか。もう涙腺をたたく機能なんて停止しているだろうに、涙がとまらないのだ。ぼろぼろとあふれていき白い床をぬらしてゆく。その涙さえも部屋に充満する激物とまざるのを、俺は死にながら見るしかなかった。 がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。 俺をむしばむ音がやんで、そこからはすっかりわからなくなる。 あいたままの眼球に、まぶしい石竹色がうつった気がした。さいごのなみだはまぎれもなく、ナツのためのなみだだった。 俺はとどのつまり、ナツをあいしていたのだ。 それは身勝手な安楽死への残酷なやさしさ (さびしくひとり、死んでいったにんげんは、) すみません。あげるか迷いましたがよりによってこれをあげるのはミスチョイスだったかもしれません。 さいごの石竹色というのはこんな色です。 |