愚か者の嘆き



関平が成都を発ち、数日が過ぎた頃に、その人がやって来た。


「初めまして、悠生殿」

「……、」


第一印象は、空気みたいな人だと思った。
空気が読めない、存在が薄い、といった意味ではなく、ずっと昔から知っていたような…とにかく、悠生は説明し難い不可解な違和感を身に覚えた。

物腰柔らかな、中性的な青年である。
長身の趙雲と並ぶと背丈は低く見えるが、それでもすらっとしていて、見るからに文官だと分かる風貌だった。

悠生の学問の先生はずっと趙雲だったが、数日前から、趙雲に代わる新しい先生を紹介すると言われていたのだ。
諸葛亮の推薦もあったようで、常日頃から忙しい趙雲は何の疑問も持たず、素直に従ったらしい。

悠生は聞き分けのない子供ではない。
ただ…、本人には絶対に言わないが、出来ることなら、趙雲に教えを受けていたかった。
知らない人と二人きりで勉強をするなんて、コミュニケーションが苦手な悠生にとっては、苦痛でしかないのだ。


「悠生殿、此方は、黄皓殿だよ」

「こうこう…どの」


悠生は一瞬、我が耳を疑った。
趙雲の口から出た男の名を、小さく繰り返す。
"黄皓"…その名は、よく知っていた、知らないはずがなかった。
思わず、ぎりっと唇を噛み締めた悠生に気付いた趙雲が、どうしたのものかと視線を送る。

阿斗と友人関係を築いた今の悠生にとって、黄皓は、最も出会いたくない男だったのだ。


「趙雲殿の代わりがつとまるよう、精一杯尽力いたします」

「……、」

「では、また明日にでも…」


扉がパタンと閉まる音を聞き、緊張のせいでずっと息を止めていた悠生は、ごほごほと咳き込んでしまった。
異変を察した趙雲が背を撫でてくれたが、乱れた呼吸はなかなか落ち着かない。
浅い呼吸を繰り返すと、苦しくて頭の中がぼうっとしてくる。

嫌だ、とは言えなかった。
幼子のように我が儘を口にして黄皓を追い返しても、趙雲が先生に戻ってくれることはきっと無いのだ。


(あいつが…劉禅を唆したやつなんだ…)


その男は、最も憎むべき人物だった。
黄皓は、去勢を施された宦官である。
経緯は知らないが劉禅に寵愛され、政治の実権を握り、姜維らと対立して蜀を破滅に追い込んだ。
黄皓こそが、劉禅が暗君と呼ばれる原因となった、と言われている。

現代に、史実として伝わっている内容全てが真実とは限らないが、阿斗を誰より慕う悠生にとって、黄皓は声を聞いただけでも耳を塞ぎたくなる男である。
だが、黄皓の存在に狼狽えるだけではなく、動揺するあまりに過呼吸になりかけてしまうとは思わなかった。


「けほっ、は…っ…」

「悠生殿…、いったい、どうされた?」

「へ…いき、で…」


本当に、驚いたのだ。
黄皓が新しい先生になるなんて、一度だって考えたことがないし、望んでもいなかった。
悠生のただならぬ様子に、趙雲は困惑しているようだが、落ち着かせようと背を撫で続けてくれた。


「どうして…黄皓どのなんですか…?」

「黄皓殿が自ら名乗り出たんだよ。やる気があると、諸葛亮殿も認められたのだ」


皮肉なことだ。
聡明な諸葛亮でも、黄皓が将来、蜀にとって有害な存在になると見抜くことが出来なかった。


 

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