最後の希望




本来なら、阿斗の世話役である趙雲自身が付き添うべきだったのだ。
しかし、阿斗は明らかに趙雲を"拒絶"した。
生まれた頃から傍にいるゆえ、阿斗の心の変化に、気付かないはずがなかった。

趙雲は、張飛と阿斗の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていたが、劉備に座るよう促され、素直に従った。


「悠生殿は実に心優しい御方のようだな。阿斗が長坂での話を嫌悪していることなど、私とお前ぐらいしか知らないはずだ。それでいて、阿斗を救おうとあのような演技を…」

「ええ…阿斗様にとって、悠生殿は特別な存在なのでしょう」


長坂の戦い、それは曹操軍に終われた劉備を無事に逃亡させるため、趙雲、そして張飛が大いに活躍した戦である。
趙雲が阿斗の教育係に抜擢されたのも、長坂での件があったからだ。
赤子であった阿斗を死地から救い、劉備の元へ送り届けた…そのことがあってか、世間の人は今日も、趙雲を"長坂の英雄"と褒めそやす。


「阿斗はとても悠生殿を気に入っているようだな。阿斗に心許せる存在が出来た事を嬉しく思うぞ」


劉備は心底嬉しそうで、そして心なしか、ほっとしたようだった。
悪戯ばかりに精を出す息子のことを、生粋のうつけと認識している訳ではなく、やはり父親として、その将来を案じていたのだろう。

阿斗は時折、子供らしからぬ目をする。
その冷たい視線は、劉備の背に向けられていた。
全ては、記憶に残っているはずもない、長坂での出来事が原因なのだ。

趙雲の奮戦により、救われた阿斗。
阿斗は幼少の頃から、周囲の者に長坂の戦いについて詳しく教え込まれていた。
趙雲の忠義を見習い、感謝をしなさいと。
しかし、趙雲自身も、阿斗の冷たい眼差しに貫かれた経験があった。
まるで…虚しい世を嘆き、蔑んでいるかのようだと、彼の心を慰める術を知らなかった趙雲もまた、辛い想いをした。


「悠生殿ならば、きっと阿斗様の支えとなってくれる…私は、そう信じております」


悠生は、阿斗が初めて自らの意思で欲し、多大なる努力をして手に入れた人間だ。
全てを受け入れ包み込んでくれる、安らぎを与えてくれる…、特殊な環境で育った阿斗にとっては、貴重な存在だ。
そう簡単には手放さない、いや、これまでの阿斗からは想像出来ぬほどの執着心を見せているのだ、何があっても傍に置こうとするだろう。
もし、それほど心から大切に想っている人間が、突然居なくなったとしたら?阿斗は嘆くだろう。
蜀の未来など忘れ、殻に引きこもり、二度と他人に心を許さなくなる。


「私は、悠生殿に賭けています。悠生殿は、蜀の希望。阿斗様…これからの蜀に必要な存在なのです」

「実は、あのように笑う阿斗を見たのは、尚香殿が…、呉に帰還されて以降、初めてのことなのだ。全て、悠生殿のお陰であろう?」


…命懸けで戦場を駆け抜けた趙雲を、劉備ははらはらと涙を流しながら出迎えた。
「このような子供のために、大事な家臣を失うところだった」と。
趙雲の忠誠心に感涙した劉備の態度が、今では当たり前のように美談として語られている。
誰よりも、家臣を大事にする主君。
国中で、壊れることの無い強い絆が育つ中、阿斗の信頼は、完全に失われてしまった。

今からでも、「無事で良かった」と阿斗へ伝えてやれば良い。
だが、劉備が己の行為を後悔することは、決して無いのだ。
父と子の絆はどんなものにも勝ると、幼い阿斗が自ら気付いてくれる日を、劉備はずっと待ち望んでいる。



END

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