さよならを唄う
「大喬さま!?」
悠生は思わず大声を上げていた。
それまで慎重に立ち向かっていた大喬が、光秀の懐に飛び込む勢いで攻撃を仕掛け始めたのだから。
力の差は明らかで、しかも大喬は投げやりに、鉄扇を振り回しているだけだった。
数々の戦を戦い抜いてきた光秀だが、女相手にとどめをさすことは出来ぬようで、攻撃を受け止めることに徹している。
しかし、此処で終わらせるのが大喬にとっても良いことだと判断したのだろう。
光秀はついに、拳を一発、大喬のみぞおちへ喰らわせた。
「あ…ぅっ…」
大喬はまん丸と目を見開かせ、光秀の腕の中に倒れ込む。
しかし、悠生は大喬の口元に流れた一筋の紅を見逃さなかった。
歯を食いしばることが出来なかった大喬は、衝撃で唇を…いや、舌を思い切り噛んでしまったようなのだ。
おびただしい量の血液が、大喬の口端から溢れていく。
「大喬さま……っ…」
光秀に抱かれながらも、青白い顔をした大喬はぴくりとも動かなくなった。
最悪の事態を予感し、かっとなった悠生は幻の弓を手放して、尚香から預かった弓を構えると、その切っ先を光秀に向けた。
だが、大喬にも当たってしまう可能性があるため、すぐに弓を引くことは出来ない。
「おやめなさい。彼女は必ず助けます。ですから、貴方は今すぐ立ち去りなさい」
「嫌です!大喬さまを離してください!」
今、悠生が後退すれば、南西拠点の小春を危険に晒すことになる。
だが、小春共々、信長の元へ連れていけば、彼女達の安全は保証されるかもしれない。
しかし、その責めを負うのは孫呉の命運を預かる君主、孫権ではないか。
大喬母娘が捕縛された事実を、妲己は許さないだろう。
今まで以上の成果を孫権に求め、崩壊しかけた孫呉を取り返しのつかないほどにめちゃめちゃにしてしまうかもしれない。
組み立てられていたストーリーが、また、悪い方向に道を踏み外してしまう。
「孫呉のことなんて…僕には関係ない…だけど、皆が喧嘩したら、悲しむ人がいるんです!」
咲良の帰る場所が、無くなってしまう。
幸せを取り戻すことも、孫呉の人々と未来を生きることも出来なくなる。
悠生は光秀に切々と訴えかけるが、彼は決してその願いを聞き入れようとはしない。
必死になるあまり悠生の目にはじわりと涙が滲み、鼓動は不安と焦りで速くなる一方である。
大喬を死なせてしまうのか、こんなところで。
孫策と小春、家族で過ごす平穏な日々を、誰よりも待ち望んでいただろうに。
大喬が敵の手に落ちたことを小春に知られてはならない。
すぐにでも大喬を救い、手当てをしなければと、大勢の敵兵と向かい合っている悠生にはまず不可能であろうことを考えるが…
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