夕べがざわめく



「……もし、あと一日早く貴方を此処へお連れしていれば、赤兎馬は命を取り留めたかもしれませんね」

「赤兎には、赤兎のご主人様がいます。僕には、マサムネだけですから…」


陸遜の言葉に答えながらも、悠生は未だあたたかい赤兎の亡骸を抱き締め、ひと粒だけ涙を流した。


「…既に、ご存知なのでしょう?貴方の姉上が此処に、孫呉に暮らしていることを」

「はい。甘寧どのから、聞きました」

「全く、あの方は…。ですが黄悠殿。それでも貴方は、蜀を忘れられませんか?手に届く場所に、大切な人がいらっしゃると言うのに」


陸遜の言うこともよく分かる。
すぐ傍に幸せがあるのに、どうして手を伸ばさないのかって。
だが悠生は赤兎馬に向き合ったまま動かず、意固地になり、陸遜の言葉に耳を傾ける素振りすら見せなかった。
いくら姉の存在をほのめかされたって、心は動かないのだと、無言で拒絶をした。


「落涙殿はずっと、貴方のことを心配されていましたよ」

「…知りません。それに、僕のお姉ちゃんは、そんな名前じゃ…」

「本当の名は…咲良、殿ですか?」


びくりと肩を震わせた悠生を見て、陸遜の眼差しも鋭くなる。
驚きを隠し通せるはずがなかったのだ。
幼い頃から何度も呼び続けた、大好きな姉の名前。
他人の口から咲良の名を聞くのは久しかったが、何故、陸遜が知っているのだろうか?
尚香や、小春だって知らされていなかったのに、陸遜だけが…。


「咲良殿…実に、不思議な響きですね。ですが…美しい名だと思います」

「ほ、本当に…咲良ちゃんが…」

「黄悠殿…いえ、貴方にも別の名があるのでしょうね。私がこれほど口を酸っぱくするのは、貴方の極刑を恐れてのことではありません。咲良殿に、悲しみの涙を流してほしくないのです」


陸遜は、真剣だった。
でも、少し苦しそうな顔をしていた。
軍師として、落涙の友人として…選ぶべき道が異なっている。
悠生が阿斗の寵児でなくとも、捕虜を利用することは出来る。
若い陸遜は、周瑜や呂蒙に追い付こうと、形振り構っていられない。
彼が非道な男とは思わないが、誰だって、皆に認めてもらえるなら、どんな汚い策だって使うはずなのだ。


 

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