悲しみが居座る



「お目覚めですか」


空気を震わせたのは尚香、の声ではない。
それは耳に覚えのある、青年の声だった。
首を動かすのも億劫だったが、視線を入り口に移したら、悠生が脳裏に描いた人物が戸の前に立っていた。
凛とした瞳を向けるのは、呉軍の軍師・陸遜…今の蜀軍にとっては恨むべき一人である。


「全く…困った姫様です。城に戻ったばかりだと言うのに、貴方の傍を片時も離れようとしませんでした」

「……、」


陸孫は椅子にもたれて眠る尚香を抱き上げ、隣の寝台に横たえた。
尚香はずっと、悠生の看病をしていたというのか。
多くの将兵に混ざり、何ヶ月も戦場に立っていたら、休める時も無かっただろうに。
いくら尚香が武芸を磨いていると言えども、女の子なのだから。

だが、どうして、と問うことは許される?
傍に居てくれたのは、どうして?
わざわざ助けてくれたのは、戦場に倒れていた悠生が、兵士にしては年若く見えたからだろうか。
尚香が心優しい人であっても、全ての戦死者の冥福を祈ることなど出来るはずがない。
せめてもの償いにと、胸を痛めた尚香が、たまたま息があった蜀の人間を…悠生に救いの手を差し伸べたのであれば、陸遜にとって、悠生はただの捕虜でしかない。


「さて。貴方にはいくつかお尋ねしたいことがあります。申し遅れましたが、私は陸遜と言う者です。貴方の名をお聞きしても宜しいですか?」


本当に、拱手が様になる人だと思う。
これほど丁寧に挨拶をされては、無視することも、掛布に潜り込んで寝たふりを決め込むことも出来ない。
だが…馬鹿正直に、本名を名乗って良いものだろうか。
命の恩人とは言え、彼らが蜀の敵であることには変わりないのだ。

悠生は一度深く息を吐き、唾を飲み込んだ。
喉が張り付き、からからに渇いていたため、声が掠れて陸遜の耳に届かないかと思ったが、緊張しながらも口にしてみれば、案外はっきりと発音された。


「僕は…、黄悠といいます」

「それが、貴方の?」


頷くことで、陸遜に肯定の意を伝える。
黄悠、それは黄忠の養子となるはずだった悠生のためにと、趙雲が付けてくれた、大切な名前だ。
一番最初に、阿斗に教えたかったのだけれど、まだ広まっていないその名を名乗ることが最良だと判断した。


「では、黄悠殿。貴方は何を目的とし、戦場へ赴いたのですか?」

「何…って…」


そんなの、僕の方が聞きたいんだ。
どうしてこんなことになってしまったの?

訝しげな顔をした悠生を見て、陸遜は大方のことを察してくれたらしい。
本当に、何一つ分からないのだ。
いったい誰が何の目的で、自分と阿斗の仲を引き裂いたか、なんて。
全てはあの日から…、成都城内で何者かによる惨殺事件が起きてから、歯車が狂い始めた。


 

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