たったひとつの



(今の貴方は、ただ無邪気に…幸せに、生きているのに)


蜀軍が樊城での戦に敗北し、関羽や関平が処断されることも分かっていたのだとしたら、出立前、関平を慕っていた悠生はどのような気持ちで彼を見送ったのだろう。
止めたかったはずだ。
死にに行く友人の手をつかまえて、繋ぎ止めておきたかったはずなのだ。
だが、悠生はそうしなかった。
ただ、傍観者であり続けることを選んだ。
全てを知る者が無闇に歴史を改変してはならないと、感情を抑えていたのだろうか。

笑顔を奪ったのは、悲しい時代か。
素直に笑うことも出来なくなるほど、幼い心に重圧や負担を与えてしまったのか。
元服もしていない子供に、そこまで過酷な想いをさせていたのだ。
傍に居たのに、彼の心に気付いてやれなかったことが、ただただ悔しかった。


「子龍……」


不意を、突かれた。
息が…止まってしまいそうだった。
愛しく想う人の声が、はっきりと音を紡いだ。
どのような音曲よりも美しく響く。
いつか彼に字を呼ばせたい…と、密かに願っていた、それが唐突に叶ったのである。


「ん?趙雲ってね、戦場に、赤ちゃんを助けに行くんだよ。僕、趙雲が一番格好いいと思うんだ!おまえの名前に、どうかな?」


悠生が目を輝かせて語るのは、物語に描かれた、趙雲という名を持った男。
恐らく悠生は、目の前に居る子犬が趙雲だとは思っていない。
それでも、彼に好意を抱かれていることを知った。
たったそれだけで、趙雲の心は満たされる。

趙雲は包帯が巻かれた前足を伸ばし、悠生の服に押しつけた。
返事をしている、そう受け取られても構わない。

私が、貴方を守る。
信じてもらえるまで、何度も口にした…、だが、言葉は偽りとなってしまった。
蜀を離れた悠生は、誰を責めることもせず、己の運命を嘆いているだろうか。
それとも、弱々しく震えながら、健気にも助けを待ってくれているのだろうか。


(阿斗様を想う、半分でも良い。少しでも、私のことを…考えてほしい)


静かな空間に「ただいま!」と明るい声が響く。
どうやら、彼の家族が…あの絵の少女が帰宅したようだ。
悠生は嬉しそうな顔をして、抱いていた子犬を床に下ろし、頭を撫でる。


「おまえを見せたら、びっくりさせちゃうかも。でも、咲良ちゃんに、おまえのこと家に置いてもらえるよう、お願いしてみるね!」


廊下を駆けていく悠生の背を見送った趙雲だが、見計らったように犬の体が透け出した。
唐突に視界がぼやけ、ぐらりと揺れる。
漸く、悠生に再会出来たのに、別れるには、些か早すぎるのではないか。


(っ…!?体が…くっ、私はまだ何も…!)


もっともっと、彼に触れていたかった。
次に目を開けたら、其処には悠生が居ない、空虚な現実が待っている。


(悠生殿…っ…私は、貴方を…!)


指先の痛みだけは、明確に覚えている。
悠生の腕の中のあたたかさは、まだ、感じ足りない。



END

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