たったひとつの



「はぁ…は…っ…」


ふざけるな、気を付けろ!などと罵声を発する男と共に、生ける凶器は走り去って行ったが、趙雲は気にも止めなかった。

耳元近くに聞こえる、乱れた吐息の音。
柔らかい犬の腹に回されたものは、子供のものと見える細い腕。
誰かに抱かれていることに気が付いたのは、狂ったように脈打つ鼓動を耳にしたからだ。


「いっててて…怪我したぁ…」


趙雲の犬耳が、ぴくと反応する。
その声には、聞き覚えがあったのだ。
知らないはずがないだろう…最も、愛しく想っている人の声なのだから。
もぞもぞと動いた趙雲は、どうにか、胸に押し付けられていた顔を上げることが出来た。


(悠生…殿…)


久方振りに目にする少年の顔を見て、趙雲は胸が熱くなり、言いようのない切なさを感じた。
身に纏う衣服はやはり蜀では見られないもので、変わった形の黒い箱を背負っている。
趙雲が脳に記憶している彼より幾分か幼く見えるが、この人は悠生に間違いない。
蜀に暮らしていた、いや、孫呉に捕らわれたはずの悠生が此処にいる…つまり、この世界は趙雲にとっての未来であり、悠生にとっての過去なのだろう。

空気中に微かな血の匂いが漂っている。
膝に怪我をし、目にいっぱい涙を溜め、悠生はそれでもしっかりと犬を抱き締めている。
悠生とて、恐怖しない訳があるものか。
…このような無茶をして、命を懸けて、あの恐ろしいものから救ってくれたのだ。


「おまえ、わんこのくせに鈍いんだな」


悠生は赤子を抱くようにして、丁寧に犬を抱き上げた。
僕に感謝してよ、などと笑いながら、犬の頬をぷにぷにとつつく悠生に、趙雲は場違いだとは思いつつも喜びを感じ、異様なほどに胸を高鳴らせていた。
まさか、悠生の腕に抱き締められる日がくるとは、夢にも思わなかったのだ。
慕う者に抱かれる、それだけで、これほどにも満たされる。
趙雲は悠生から目を逸らすことが出来ず、じっと彼の顔を見つめていた。


「あれ、足…、怪我してるの?おまえノラなんだろ?んー…しょうがないな…」


ゆっくりと歩き出した悠生だが、ひょこひょこと、足下がおぼつかないのは、趙雲を助ける際に足を怪我してしまったからである。
申し訳なく思うも、今は悠生に頼るしかない。

悠生よりも少し低い目線で見た世界は、きっと危険に満ち溢れているのだろう。
だが…、不思議なことに、彼に抱かれているだけで、恐怖は綺麗に消え去った。
守られるという立場をあまり経験したことがない趙雲は、このまま悠生の腕の中で眠りたい…と思うほどに心地よさを感じたのだった。


 

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