最初の喪失
「趙雲殿は馬超殿と仲が宜しいですし、この縁談自体が諸葛亮殿からの勧めのようなので、断れなかったのかもしれませんね」
「うう…なんか、あんまり…知りたく無かったです…」
べちゃ、と筆に墨汁をたっぷり付けて、硯の中でぐちゃぐちゃとかき混ぜる。
趙雲がいつまでも結婚を決めないことを、諸葛亮もずっと気にしていたのだろう。
馬超の妹ならば、きっと趙雲の妻に相応しい素敵な人なのだろうと思う。
祝福すべきことなのに……ちゃんと分かっているのに、腹が立つのだ。
趙雲は、悠生の憧れた英雄なのだ。
ヒーローは子供の夢を壊してはならない。
ゲームの中で、趙雲の隣に妻が寄り添っていたなら、此処まで苛立ちはしなかった。
「子供心は難しくて私にはさっぱりですよ」
黄皓は苦笑するが、悠生は無視して、墨汁を染み込ませた筆を目の前に掲げた。
硯の上にポタポタと落ちる黒の雫。
これでは、まるで…血のようではないか。
(関平どの…早く、帰ってきてよ…)
趙雲のことを考えていると、涙が出そうになってくる。
これは焼き餅なのか、…我が儘なのか。
関平が居てくれたら…話し相手になってくれただろうか。
生きて、無事に帰ってきてほしいと思いながらも、滴る墨を見ていると、ますます悲しい気持ちになる。
「筆を貸してください」
「……?」
そう言って、黄皓は手を伸ばしてくる。
貴重な墨汁を玩具にしていたから、怒って取り上げられてしまうのかと思ったが…、
黄皓は墨が飛び散った紙に、筆を滑らかに滑らした。
横に、長い波線。
その線の真ん中辺り、上に向かって少し線を付け足す。
左に小さな黒丸、もっと左にまた、黒丸。
そうやっていくつかの点を書き、最後に、大きな文字で紙の右上に魏、右下に呉、左に蜀、と書いた。
「これは…三国の地図?」
「此方が、私共の居る成都城で、長江の上に位置しているこの辺りが、荊州…、蜀軍が攻めている樊城は此処にあります。こうして見ると近いと思いませんか?」
「……、」
簡略化されたものだが、実際の地図を目にしたことがある悠生には理解出来た。
指先でなぞれば、点と点がかすれた墨で繋がる。
その距離は、ほんの僅かである。
「…少しでも、安心出来ればと思いまして」
「黄皓どのって…意外に、優しい人だったんですね」
「意外、は余計ですよ」
やけに説得力を感じるのは、黄皓の心が伝わったからだろう。
関平は、こんなに近くに居るのだ。
想いが届くかもしれないほど、近くに。
そう思ったら嬉しくなって、笑みを浮かべたら、黄皓も安心したように笑った。
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