愛しい魂



尚香の視線の先には、何度も読み返したであろう、実兄・孫権からの文があった。
それに手を伸ばし、阿斗は一通り手紙に目を通した(尚香は止めようともしなかった)。
母国を離れて暮らす妹の身を案じつつ、伝えなければならないことだと…、達筆な文字が綴るのは、尚香の母親の、危篤を告げるものだった。


「尚香。すぐに帰って参れとあるが…、日付は、ひと月も前ではないか」

「…悩んでいたの。本当は、すぐに帰りたかったわ!でも私は…孫呉の姫だったけれど、元徳様の妻なのよ。私にだって、呉蜀の今の現状は、耳に入っているんだから…」


阿斗も普段は興味のないふりをしているが、知らない訳ではない。
劉備と孫尚香の婚姻により一度は手を組んだ両国だが、今になって呉と蜀の関係は悪化し、一触即発してもおかしくない状況なのだ。

兄と夫の間で、尚香は板挟み状態にある。
たとえ彼らが敵味方の間柄になろうとも、尚香は…劉備を心から愛しているのだ。
だから、呉への帰還を渋っていた。
このような状況で里帰りを申し出れば、間違いなく疑わしい行動と見做される。
もう二度と、蜀の地を踏むことも出来ないかもしれない。


「母様のことは心配だけれど、元徳様や阿斗に会えなくなる方が…つらいわ」

「…ならば、私も共に参ろう。そなたの女官と使用人…信頼出来る護衛も付け、皆で揃って呉へ訪問すれば良いではないか」


周囲からはうつけ者と評されてはいるが、それでも阿斗は劉備の嫡子である。
大事な御子を、劉備の許可も無く連れ出すことが許されるはずはないが、たとえ劉備が許しても、諸葛亮は全力を尽くして止めるだろう。
だからと言い、阿斗や尚香が黙って城を抜け出せば、皆は死に物狂いで捜索し、連れ戻そうとするはずだ。
そして何より、尚香の立場が悪くなる。

だが万が一、尚香が責められることとなれば、全ての責任を阿斗自身が負えば良いのだと…、それで上手くいくと信じ込んでいたのは、阿斗がまだ幼かったからだろう。


「とても嬉しいけど、駄目よ。私のために、あなたを危険な目にあわせる訳にはいかないもの」

「死の瀬戸際に在る母親を放っておくつもりか?尚香。私を信じろ。きっと故郷へ連れていってやる。早う、返書を書くのだ」

「阿斗……」


実母の顔も覚えていない阿斗は、尚香だけには、母の死に立ち会えないことで、苦しい想いをさせたくなかった。
尚香の手を握り、阿斗は自信満々に笑う。
必ず、上手くいくと思っていた。
自分の考えの甘さが、尚香との別れを招くこととなってしまうだなんて、思いもしなかった。
劉備を憎み、趙雲を責め、心を閉ざした阿斗は、生きることにさえ絶望した。

悲しみに暮れる尚香。
差し出された手を掴めなかった阿斗。
それが、二人の最後の映像だった。



 

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