愛しい魂



江東の虎の娘。
父の妻となった、孫呉のうら若き姫君。

母親を知らずに成長した阿斗は、彼女への愛しさ…その感情こそが、家族に抱く親愛だと認識していた。
国を越え、政略的に嫁がされた姫、孫尚香を、決して不幸にしてはならないと思っていた。




泥まみれの阿斗は、小汚い袋を片手に、尚香の自室に向かっていた。

廊下を汚しても、誰も咎めたりはしない。
皆、困惑顔で視線を送るか、黙って掃除をするか…そのどちらかだ。
他人の迷惑を顧みぬ阿斗の振る舞いに手を焼いていた使用人達ではあるが、服を召し変えられよと面と向かって注意出来る者は居なかった。


「阿斗様、申し訳ありませんが、本日も奥方様は、体調が優れないご様子で…」


最近、阿斗を悩ませているのは、義母である孫尚香の女官達だった。
困り顔で扉を塞ぎ、部外者の侵入を拒む。

もう何日も、尚香は部屋から出てこない。
理由はこの通り、具合が悪いの一点張り。
最初は、それなら仕方がないと阿斗も理解を示したが、ついに我慢も限界だった。


「では聞くが、父上は何度訪れた?」

「いえ…、まだ、一度も…」

「そうだ。父上はお忙しい。ゆえに私が見舞いに来たのだ。逆らうことは許さぬぞ!」


それでも渋る女官にじれた阿斗は、持っていた袋を思い切り投げつける。
薄汚れた袋から飛び出したのは小さな鼠。
武装した者も多い尚香の女官にしては気の弱そうな娘は、悲鳴を上げ、泣き出しそうな顔でよろめいた。
付近には他にも幾人かの女官が控えていたが、彼女らが仕える尚香自身が、阿斗が自由に部屋を出入りすることを認めていたため、これ以上拒むことは出来ないと、鍵を持ち出した。


(忙しい?そのような言い訳をよくも…)


本当に尚香が病に苦しんでいるのなら、徳の人と褒め称えられる劉備が妻の見舞いに訪れないはずがないのだ。
阿斗から見ても、年の離れた夫婦の仲は睦まじく、父は妻を大事に扱ってくれるものだと思っていたのだが…淡い期待は今にも裏切られてしまいそうだ。

最後に、女官はか細い声で、「奥方様をお慰めくださいませ」と呟いた。


「…尚香…」

「阿斗…?」


窓を閉め切り薄暗く、昼間だというのに光の気配が感じられない。
尚香は椅子に腰掛け、ぼんやりと宙を見上げていた。
思わずゾッとするほど尚香の瞳は虚ろで、まるで生気が感じられない。
出会った頃の、健康的な女性の面影は、少しも見られなかった。


「もう…また悪戯をしたのね?こんなに汚れて…」


ぎこちなくだが微笑んだ尚香は、阿斗の顔の汚れを丁寧に拭う。
阿斗はされるがままになっていたが、彼女の目の下のくまや、青白い顔を見て、どうしようもなく悲しくなった。


「阿斗、そんな顔しないで。って…私のせいよね。ごめんなさい」

「…体調が…優れないと聞いた…」

「ええ…ちょっとね。兄様から手紙が届いたの。だから…いろいろ考え込んじゃって」


 

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