安らぎと痛み
「劉備さまの奥方さまって…阿斗のお母さん?でも、甘夫人はずっと前に亡くなっているでしょう?別の人?」
「私がお世話を申し付けられたのは、孫夫人でした。今はもう成都にはいらっしゃらないので、私は任から外されましたが…」
「そん…、えっ、まさか、孫尚香…?」
そのまさかである。
劉備の妻となった孫夫人なんて、孫呉の孫尚香以外に考えられない。
「奥方様は、私にも良くしてくださり、阿斗様ともたいへん仲が宜しくて…」
「じゃあ、えっと…、黄皓どのは、尚香さまのお世話係が嫌だった訳じゃなくて、」
「そうですね。私はあまり強くないので、宦官を毛嫌いする者達からは酷い言われようでした。心が折れてしまいそうなほど、思い詰める日もありました」
黄皓が語った、"独りきりで弱っているとき"…それは、彼が孫尚香の使用人であった時のことなのだろう。
何でもないかのように軽く言うが、あまり思い出したくない過去だろうに。
黄皓は、いじめられていたのだ。
容姿や弱い性格をからかわれた経験がある悠生は、すぐに察すことが出来た。
宦官になった者は、男性ホルモンが押さえられ、髭が生えにくくなる。
体は丸みを帯び、見た目までもが中性的になってしまうという。
それを全て承知の上、貪欲なまでに金や地位を求めるのが、宦官…だが、黄皓は、違ったのだ。
なりたくてなった訳じゃないのに。
でも、誰も分かってくれなかった。
「黄皓どのの光…、阿斗だけが…」
「ええ。阿斗様はうつけなどと言われていましたが、本来は聡明な御仁です。阿斗様が私に初めて声をかけられた時、何と仰ったか分かりますか?」
人間とは実に不思議なものだ。
嫉妬に狂い悠生に暴力をふるった黄皓。
だが今は、これほど優しげな表情で、阿斗への想いを語っている。
好き、も度が過ぎると形を変えてしまう…難しいものである。
「腐った世などぶち壊してしまえ。今は水面下で、密かに力を蓄えるのだ、と」
「え」
「いえ、冗談ですよ。阿斗様は、ご自身が蜀の主になられたら、忠誠心と才のある者を重用すると約束してくださいました」
真顔で冗談を言うのは勘弁してほしい(思わず身構えてしまった)。
…きっと、もっと砕けた言い方ではあったのだろうが、阿斗は一生懸命に頑張っている黄皓を労ったのだろう。
暗闇の中の光。
苦しみ、悲しみ、絶望まで味わった人間に与えられた、小さな優しさ。
精神的にボロボロになった黄皓を救ったのは、阿斗の言葉だったのだ。
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