幸福の世界




劉備の嫡男、名は阿斗という。
まだ元服をしていないが、周囲からはうつけものと噂され、正直言えば、父からも期待はされていない。

阿斗はずんずんと邸の廊下を歩いていた。
湯浴みをしたばかりで、しかもちゃんと乾かさなかったために黒く長い髪からは水が滴り、床を濡らしている。
慌てて後を追う女官が手拭いを差し出すが、絶対に受け取らない。
阿斗の頭にあるのは、昼間、村で顔を合わせた少年のことだけだった。


(私がいくじなしではないと証明してみせよう)


今日、出会ったばかりの村人への対抗心から、阿斗は半ば意地になっていたのだ。
好きな人に何も言えないと、事実を言い当てられ、悔しかった。
本当の自分は、ただの愚かな子供ではない、普段はそう"演じている"だけだ。


「子龍、子龍よ!私に星彩を貸してくれ」

「阿斗様!そのようなお姿では風邪を召されますよ」


ずかずかと鍛錬場へ乗り込んだ阿斗は、趙雲から直々に槍の指南を受けていた星彩を呼びつけた。
当然のように小言を聞き流すと、槍を手にした趙雲は呆れたように溜め息を漏らした。
阿斗は物心ついた頃には既に傍に居た趙雲を、字の"子龍"と呼び慕っている。
そんな阿斗の我が儘に世話役の趙雲が頭を抱えるのも、珍しいことではないのだ。

阿斗は後を追ってきた侍女から手拭いを奪い取って星彩に渡し、「私の髪を拭いてはくれまいか」ととんでもない発言をする。
仮にも、劉備の義弟・張飛の娘である彼女は姫とも呼ばれる立場だというのに、このような侍女紛いの行いをさせようなど、褒められたことではない。
だが星彩は嫌な顔一つせず、そっと優しい手つきで阿斗の濡れた髪に触れた。

阿斗の愚行や自分勝手な振る舞いに、今更誰も驚きはしないのだ。
軍議の資料に落書きをしたり、悪戯をしては周囲の者を困らせる。
阿斗様はどうしようもないうつけ者、口にはせずとも、誰しもがそう思っている。


「星彩、私はそなたに髪を撫でてもらいたかったのだ…。気を悪くしただろうか?」

「いいえ。私で良ければ…いつでもおっしゃってください」


愛しい人、星彩の言葉に、阿斗は心の底から満足していた。
子供扱いはこの際気にしない。
事実、まだ元服もしていないのだから。
それならば、今のうちに子供の特権を大いに活用すれば良い。


(私はうつけだろうが、腑抜けではないぞ)


想い人に触れてもらうために行動を起こせる自分は、いくじなしなどではないのだから。
あの礼儀知らずな村人に会って、前言を撤回させねば…と勝ち誇った阿斗は一人ほくそ笑んでいた。


この時の阿斗には、まだ知る由も無かった。
たった一度、言葉を交わしただけの悠生が、自分に、そして蜀の未来に大きな影響をもたらすことを。



END

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