清らかな雫




陸遜にしてみれば、凌統との約束を守っただけだ。
落涙が病棟を、出たら共に見舞おうと。
しかし陸遜には、悠長に手土産を用意する余裕も無かったのだった。

やはり、馬鹿なことを言ったと思う。
だが、自分が悪いとは思わない。
落涙が甘寧を慕おうとそれは本人の勝手だ、陸遜が気に障ったのは、彼女に約束を破棄されたことである。

彼女に貸した手巾は今、手元にあった。
約束の証でもあるそれは、小春を通して一方的に返却されてしまった。
これで落涙との繋がりは、絶たれた。


(…私はどうして…涙を忘れてしまったのだろうか…)


陸遜はここ数年、涙を流していなかった。
失ったと言っても過言ではない。
幼い頃から陸家の跡取りとして育てられ、陸遜は沢山の大人の中で生きてきた。
涙を流すことは許されなかったのだ。
だから、彼女がどのような方法で自分を泣かせてくれるか、少なからず、期待していた。
手放したくなかったのかもしれない。
約束、という細い糸。
それこそ、彼女との最後の繋がりだった。


(凌統殿と二人きりにしてしまったが…やはり私も残るべきだったのだろうか…)


今更ながら、陸遜は立ち止まって考え込んだ。
凌統は甘寧に比べたら、女性の扱いには慣れているはずだが、女官からの人気は凌統が上…、つまり女性は凌統のような男を好む。
当の落涙は甘寧を慕っているらしいから、凌統に靡くことは有り得ない。
罪悪感に打ちひしがれていた凌統が、まさか彼女に手を出すことはないだろう。


(そうではなく、私が案じているのは…)


陸遜は前方に、大量の書物を抱えた呂蒙を見つけた。
はっとして、彼の元へ歩み寄り、手を差し出して「お持ちします」と声をかける。


「すまないな、陸遜」

「いえ。何かお手伝い出来ることがあったらおっしゃってください。…ご無理をしては、病が悪化してしまいます」

「ははっ、それはそうだな。だが陸遜、お前が居れば何も恐れることは無かろう」


呂蒙が病に冒されている…それは偽りであるのだが、陸遜は彼の真意を悟り、その嘘に付き合っていた。
笑みを浮かべて隣を歩くこの男は努力家で、さらには気さくな人で…、陸遜はたいそう呂蒙を尊敬しているのだ。
兄のようで、父のようでもある。
自分も含め、呂蒙を慕う者は多かった。

近日中に、呉軍は荊州へ出陣する。
次の戦は、呂蒙の後任とされた陸遜も同行する予定だ。
陸遜には才はあるが、実戦経験は少ない。
呂蒙や孫権が、無名の軍師を起用すると決めたのは、敵を油断させることが目的である。
こうしている間にも、孫権の命を受けた呉軍が着々と準備を進めている。

決着をつける、その相手は蜀の関羽だ。
呂蒙は病に倒れ、後任は無名の青二才…、油断した関羽の目を呉から背け、魏との戦いに専念させ、その隙に荊州の地を奪還する。
この機会に、後々の驚異となる関羽を葬り去りたいところではある…が、軍神と名高い男が相手では、一筋縄ではいかないだろう。


「そう言えば陸遜、数刻前、書物庫で落涙殿に会ったぞ」

「落涙殿に?」

「音曲の資料を探していたようだが、何というかな…驚いたのだ。失礼な話だが、法要の日に笛を奏でた楽師と全く同じ女性とは思えないほど、幼く見えてな」


呂蒙の口から、落涙の話が聞けるとは。
しかも、幼いと…、だがそれこそ、陸遜が感じていたことだ。
楽師の落涙と、普段の彼女とでは、見目も雰囲気も異なるように思う。
どちらが本当の彼女なのだろう。


「新しい妹が出来た気分だ。いや、娘と言う方が正しいか!」

「ふふ…呂蒙殿、嬉しそうですね」


何が、いけなかったのだろう。
どこから狂ってしまったのだろうか。
彼女が大怪我をしてから?
甘寧と出会い、その心を奪われてから?

……約束。
そう、その約束の内容が問題だったのだ。
落涙が陸遜を泣かせることに成功したら、友達になりたいと彼女は言った。
それ即ち、今の二人は友以下の関係。
約束を破棄された以上、関係に何かしらの変化が生じることは有り得ない。


(そうだ。私は落涙殿と恋をしたかったんじゃない。周瑜殿と孫策殿のように友情を育みたかっただけ。そうに違いない)


素直に此方から非礼を詫びれば、彼女はきっと、愚かな自分を許してくれるだろう。
しかし元の鞘に戻りし時は、今度は一人の友として、落涙の恋を応援しなくてはならない。


「……、」

「陸遜?腹でも痛いのか?」

「…いえ、何でもありません」


己の心に住まう、銀の笛を奏でる娘が、鈴の男に寄り添う瞬間…それがきっと、陸遜の落涙する日なのだろう。



END

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