つばめと落涙
「あなたが落涙殿だなんて!お目にかかれて光栄です。度々、周瑜殿からよくお話を聴いているのですよ。美しい音曲を奏でる、まるで太陽の光のようなお方だと」
「そのようなことを、周瑜、様が…?」
「すみません、実は周瑜殿はお忍びで城下に出向いていたのです。今の話は、秘密にしていただけませんか?」
陸遜でも失敗するようなことがあるのだ。
若くして軍師を務める天才なのに、子供のような一面を見て、なんだか可愛らしく思えて咲良は小さく笑った。
「やっと笑ってくださいましたね」
「え」
「落涙殿、約束ですよ?それと、私は酒が苦手なのですが…あなたの笛の音を聴いてみたくなりました。機会があったらお訪ねします。それでは…」
拱手し軽く頭を下げた陸遜は、再び人混みの中へ消えていった。
水分を含み、くしゃくしゃになったハンカチを握り締める。
また会えるかは分からないが、いつか、返しにいかなければ。
その時はもう一度、ちゃんと礼を言おう。
咲良はぼうっとしながら、遠ざかる陸遜の背をいつまでも眺めていた。
―――――
"落涙"と呼ばれる楽師が居るという。
花のように舞う天女の美しさに恥じ、厚い雲の中へ隠れた月の変わりに、天女を照らすために差し込んだ柔らかな太陽。
太陽は分け隔てなく光を振りまき、全ての者を包み込むような優しさで人の心を震わせる。
誰もが涙を流さずにはいられなくなる。
(肝心の音曲を聴くまでは、何とも言えませんがね)
美周郎と呼ばれる周瑜が、妻の小喬以外に唯一褒め称えた女性、それが落涙だったのだ。
どのようなものか、と興味を抱いていた陸遜だが、彼女は何処にでも居るような、普通としか形容出来ないような少女だった。
「陸遜、夜分遅くにすまない」
「周瑜殿?」
城下の視察を終え、城に帰還した陸遜はすぐさま執務室に籠もっていたのだが、本日の仕事を終えそろそろ休もうと思っていた矢先、上官である周瑜が訪ねてきた。
周瑜は既に軍師としての役目を終え、若くして隠居している身ではあったが、今も部下達を指導し、知恵を授けている。
明日の軍議には間に合わない、何か緊急の用でもあるのだろうか。
「三日後、前皇帝の…孫策のための法要が営まれるだろう」
「はい。存じております」
「そこで、だ。弔いの為に孫呉一と呼ばれる楽隊を呼んでいたのだが、私は是非とも落涙殿に来てもらいたいのだよ」
それは、意外な申し出であった。
周瑜が密かに落涙に入れ込んでいるのは知っているが、彼女はいくら名手とは言えども、小さな店で酔っ払い相手に音曲を聴かせているだけのだ。
そんな、遊女とも大差ない娘を前皇帝の法要に呼ぶなどどうかしている…と、昨日までの陸遜なら意見したであろう。
「珍しく夜の街を歩いた私が、落涙殿の音に出会えたのは…偶然ではないような気がするのだ。あれから数回店に通ったが、やはり彼女の音は美しい」
「ええ。きっと、孫策殿も落涙殿の音曲を気に入ってくださるでしょう」
周瑜の提案に陸遜も賛同し、三日後、あの落涙を城へ招待することが決まった。
陸遜は周瑜のように、落涙の音を気に入っているのではない。
ゆえに、それほど期待をしている訳でもなかった。
(涙を流すことを忘れた私をも、あなたは泣かせることが出来るというのですか?)
その"落涙"の名に違わぬ音曲を披露してもらわねば、と陸遜は昼間出会った娘を思い、静かに笑っていた。
END
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