愛らしい娘
「落涙さま。わたしは、落涙さまが知る新しい音曲を教えていただきたいのです。父上の法要の日に奏でられていた、あのような不思議で美しい旋律を…」
「私の知るもので良ければ、喜んで!…ですが、小春様、お恥ずかしながら私は、楽譜の読み書きが出来ないんです…」
「まあ。でしたら、わたしが譜を書くので、落涙さまは音を教えてくださいますか?ひとつひとつ、楽譜を完成させていきましょう」
小春は本当に賢く、優しい娘だ。
咲良の抱いていた不安を察して、欲しい言葉をくれた。
頭の中にある旋律を教えることだけが師の役目ではないはずだが、ひとまず、これでまともな練習が出来るだろう。
(笛が持てるようになるまで、今は、目の前のことから頑張らなくちゃ…)
白い茶器に注がれた茶を見れば、現代にいた頃と何ら変わらない自分の顔が映っていた。
少し、痩せただろうか。
苦労という苦労はしていないつもりだが、やはり環境の変化に慣れるまでには相当、精神的な不安もあったはずだ。
学校に行き、授業を受けて部活動に励むことが出来た毎日は、当たり前のようで…、今となっては奇跡のような日々だった。
「ところで…落涙さまは今、お幾つなのでしょうか?」
「私は十七歳になりました。年の割に落ち着きが無いとよく言われます」
「まだお若いのに、落涙さまは楽師としてご活躍されていらっしゃる…やはり、落涙さまは素晴らしい御方です。では、ご出身は?」
年齢を明かすことはさほど気にならなかったが、出身となると…、咲良は口を噤み、思い悩む。
小春はきっと他意も無く純粋に、尊敬する落涙について知りたいと思い、質問してくれたのだろう。
素直に倭国の出と教えても良いのだが、異国の生まれだという事実が公になってしまえば、後々面倒なことになりそうだ。
孫呉を脅かす間者と疑われては、元も子もない。
「故郷はとても遠い場所にあります。ですが、今の私にとっては建業が家なので…」
嘘を付くことが出来ず、言葉を濁す。
少々苦しいが、そうするしかなかった。
小春は最初こそ頭にハテナを浮かべていたようだが、咲良が返答に困っていると気付き、また別の話題をふってくれた。
(ああもう、良い子すぎるよ、小春様!)
心優しくて、気が利いて…それでいてとても可愛らしい娘、彼女こそ、陸遜の妻に相応しい。
小春は、お姫様…公主という存在なのだ。
これほど近くに居ても、同じ目線で会話をしていても、彼女は生まれながらに高貴な存在で、自分とは次元が違いすぎる。
いくら望んだって、咲良が無双の英雄が生きた世界に溶け込めるはずがない。
「小春様、ひとつお願いを聞いていただけないでしょうか?」
「はい、わたしに出来ることならば…」
「ありがとうございます。これを…陸遜様にお返ししていただきたいのです。以前お借りして…そのままだったので…」
陸遜との、約束の証。
小春は何の疑問も抱かず、咲良から白いハンカチを受け取った。
唯一残されていた、彼との繋がりであったそれを手放しても、全てが無かったことにはならず…咲良の胸の痛みは増していくばかりだった。
この気持ちは憧れだと、何度も言い聞かせる。
それ以外の何でもない、ましてや、恋なんかじゃない。
彼は、"無双"の住人なのだからと割り切ってしまえば、少し気が楽になった。
悠生より幼い小春のことも、本当の妹のように愛せる気がした。
END
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