愛らしい娘



「落涙さま。先日はありがとうございました。この櫛は、わたしにとってとても大切な物なのです…本当に、感謝しております」

「いえ、私は何もしていませんよ。ですが、無事に小春様の元に戻って良かったです」


二人きりになってすぐ、小春は櫛の礼を言い、礼儀正しく頭を下げた。
咲良は笑って見せたが、奇妙な息苦しさを覚え、同時に胸が鈍く痛みだした。

…あまり、考えていたくなかったのだ、陸遜のことは。
いっそのこと、綺麗に忘れてしまいたかった。
正しい歴史…と言っても、無双に史実を求めても仕方がないことは分かっている。
しかし、登場人物達が定められた道を歩むためには、必要以上に、偉人と呼ばれる存在に関わらない方が良いような気がしたのだ。

陸遜に嫌われたのは悲しいが、そうなるよう望んだのは他でもない自分自身だ。
それでも、やっぱり辛くて、苦しくなって…あの後、寝台の上で泣いてしまった。
どうして上手くいかなかったのだろう。
もとより、聡明な軍師様と友達になりたいだなんて、叶わぬ夢を見た自分が悪かったのだ。
だから、忘れてしまうしかない。
思うようにならなかったと嘆いても、最初からやり直すことは出来ないのだから。


「可愛らしい櫛ですね。陸遜様が選ばれたものなのですか?」

「はい。以前、伯言さまが…わたしに…」


伯言さま、と彼女が口にする陸遜の字は、特別なもののように思えた。
頬を染めて陸遜を想う小春は、幼いながらも、彼に心から恋をしているのだ。
微笑ましいと思う。
陸遜と小春が並んだところはまだ見たことが無いが、美しい二人のことだから、きっと絵になるだろう。

咲良は、未亡人となった大喬の幸せを望んでいた。
彼女の苦しみに直接触れた訳ではないが、想像出来ないことはなかった。
幸せについて考えた末、大喬の幸せは小春の幸せ、という結論に辿り着いた。

では、小春の幸せは?
陸遜と結ばれることであるのならば、それなら既に叶っているはずだ。
…今、微笑む彼女は、幸せなのだろうか。


(幸せって…本当に難しいな。私だって、恵まれているはずなのに、どうして、幸せだと言い切れないのかな)


フルートを奏でることで、一瞬でも聴き手が幸せな気持ちになってくれたら…それだけでも嬉しい。
だが、奏者である咲良自身が未だ本物の幸せを知らず、それでいて小春の笛の師となるのだから、心配事は増すばかりである。

現時点で、咲良には不安なことが幾つかあった。
自分には、この時代の楽譜が読めない。
蘭華の店で、楽師の仲間に譜の読み方を教えてもらったのだが…そもそも中国語が理解出来ない咲良には、ただの暗号にしか見えなかった。
あの頃は楽譜が読めなくても、他の楽師に弾いてもらった音を自分なりに解釈することでなんとかなっていたため、無理をしてまで勉強することはなかった。
むしろ自分の方が、小春に読み方を教えてもらわなくてはならないのではないか。

そして、現代とは違う笛の構造や、音楽に関しての価値観の違いなど、咲良を悩ませることは多かった。
基準となるピッチ(音程)が大分低めに設定されているのには驚いたが、それは自分でチューニングすれば良い話だ。
小春は全くの初心者という訳ではないようなので基礎を教える必要はないと思うが、運指も違う上に、中国生まれの彼女にドレミのイタリア式音名が通じるはずがない。


 

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