暗き夢の中



「実は、落涙殿からの預かりものを、届けに来たのです」

「あ…っ!も、申し訳ありません!伯言さまからいただいた櫛を落としてしまうだなんて…わたしは何ということを…」

「お気になさらないでください。いつも大切に持ち歩いてくださったんでしょう?ですが、次は落とさないでくださいね?」


自分よりもずっと小さな手のひらが、きゅっと櫛を握り締める様を見て、陸遜は自然と口元を弛ませていた。
とても素直で、健気で…可愛らしい人だ。
やはり、愛しい…と思う。
非の打ち所が無い小春だが、どういう訳か、陸遜は彼女を妹のように見てしまうのだ。
年が離れていることもあるが、未だに小春を女性として愛せないのはそれが原因なのだろうか。


「ありがとうございました、伯言さま。後日、落涙さまにもお礼をしに参ります」

「そうですね…落涙殿にも…」


その名を聞くと、悲しげな顔ばかりが思い浮かぶようになった。
確かに落涙は陸遜に涙を見せたが、顔を合わせる度に泣いていた訳では無いはずなのに。
笑顔も、思い出せなくなってしまった。
これほどまでに、陸遜の頭を悩ませる存在が現れたのは、生まれて初めてのことだった。

甘寧は敵も多いが、彼を慕う者も数多い。
それほど、甘寧は魅力的な男なのだ。
陸遜にとっても、甘寧は些か眩しすぎるように感じられる。
たった数回、言葉を交わした程度であれ、落涙が甘寧に惹かれるのは別に不思議なことではない。
無関係な陸遜が、それはおかしいと咎める理由だって無い。

ならば約束を無かったことにされ、悔しいのはどうしてだろう。
私の方が、早く出会っていたのに…、そのような子供じみた考えを抱いてしまうのは、何故なのだろうか。


「伯言さま?」

「…ああ、何でもありませんよ」

「お疲れなのかもしれませんね。今日は早くお休みになってくださいね?」


何も知らない小春はただただ陸遜の身を案じて、不安げな目をする。
これほど心配してくれる女性が傍に居るのに、他の人間のことを考えている自分が情けなく思えて、陸遜は苦笑した。
落涙のことは、きっと、涙を見てしまったから…気になっただけで、彼女が小春以上になることは絶対に有り得ない。


(私は何も、間違ってはいない…そうでしょう…?)


確かな答えが欲しい。
だが、尋ねたとしても、答えてくれる人は居ない。

出会わなければ、良かったのだろうか。
叶わないと分かっていても、定めに抗うつもりなど、無かったのに。


END

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