軌道を歩んで
…落涙様…、と低く低く呼ぶ声が聞こえた。
ひどく優しく耳に吹き込まれたそれは、全身が柔らかく包み込まれるようで安心出来るものなのだ、この時だけはとても、幸せな心地だった。
この人とずっと一緒にいたい、彼と家族を作りたいと、ほんの短い間でも、心から思えたのだ。
咲良が想いを伝える前に、芽生えたばかりの二人の絆は無惨にも引き裂かれてしまった。
『周泰さん…?』
弧刀に手をかけ、此方を鋭く睨み付ける周泰が居た。
明らかな殺意を向けられていると、鈍い咲良にも分かった。
そのような冷たい瞳は、一度だって見せられたことがなかったのに。
『…落涙様…ご覚悟を…!』
『っ…どうして!?幼平様…!!』
『…すまない…咲良…』
きっと、孫権様のために、妻となるはずだった女を斬るのだ。
それならば、そんな悲しそうな顔をしないで。
彼の一番が誰かなんて、最初から分かっていたこと。
だから、迷う姿など見せないでほしい。
(孫権様より妻を選ぶ貴方は…嫌いだよ…)
だけど、涙することだけは許してほしい。
この涙は、簡単には止められないものだから。
私を愛してくれた貴方の妻になりたかった…、本当の気持ちを伝えるのが、遅すぎたのだ。
振り上げられた刀が、やけに美しく煌めいた。
━━━━━
「お嬢さん、お嬢さん、起きてくださいよ」
大袈裟なほどに、ゆさゆさと体を揺さぶられていた。
意識を覚醒させた咲良が、ゆっくりと目を開けたら、世界はぼやけていた。
まだ、夜は明けていない。
いや、もしかしたら丸一日眠っていたのかもしれない。
ぼんやりと宙を見上げていた咲良は、心配そうに顔をのぞき込む男…、左近と視線を通わせる。
「ん……、おはようございます…?」
「何で疑問系なんですかね…、あんた、酷く魘されていましたよ。仕舞には泣き出すもんだから、こうして叩き起こしたんですけど」
「へ……?私…泣いて…?」
怖い夢でも見たんですかい、と尋ねる左近の指が、咲良の目尻に溜まった雫を拭う。
頬が濡れていることに気が付いたのは、先程まで見ていた夢を思い出したことによってさらに多量の涙が溢れた時だった。
「大丈夫じゃなさそうですな。怖い夢を見たなら、他人に話すと楽になりますよ。ひとつ俺に聞かせてみませんか」
「いえ…怖い夢って訳じゃないんです。だって…私の大切な人が出てきたから…」
その大切な人に、斬られる夢を見た。
自分は彼が主を選ぶことだけを望んでいたはずなのに、でも本当は…丸きり正反対の気持ちを抱いていた。
今まで、建業を離れてからは、出来るだけ周泰のことを考えないようにしていたのだ。
私は彼に相応しくない、情けない甘ったれた女だと、自らを追い詰めてしまいそうだったから。
それに…、いろいろと言い繕ってはいたが、やはり寂しかったようだ。
周泰の声を聞かない日々が続き、彼の声を忘れてしまうかと思えば、こんなにも強く頭に響いている。
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