ささやかな戯れ
一目で高貴なる者の在する空間だと見て取れる小さな一室に、孫権と周泰、二人が待っていた。
連れ添う女官も退室し、蘭華にも見送られた今、頼れるのは自分だけとなった。
がちがちに緊張する咲良を笑い、孫権は優しく着席するよう促す。
「落涙よ。此度は急な申し入れ、さぞ戸惑ったことであろう。だが…どうか、受け入れてほしい。お前を救うには、これしか術が無かったのだ」
「いえ…とんでもないです。私のような者のために、ここまでしていただけるなんて…本当に、感謝しています」
「うむ。そこでだ、お前を私の養女とし周泰と契りを結んでもらおうと考えているのだが…少々、聞きたいことがある」
小春の部屋に忍び込み、彼女を傷付けた真犯人は未だ捕まっていない。
咲良は真実を知っているが、自ら語ることはしなかったし、小春も目を覚まさないために真相は闇に包まれている。
すると、疑わしきはやはり同時刻、小春の傍にいた落涙だけなのだ。
だが、孫権は咲良を信じ、孫呉の将軍の妻という地位をもって、落涙を救おうとしている。
「お前を疑いたくはない。私の娘となるのだからな。生まれや育ちはこの際気にせぬ。全てを語らずとも良い。私は落涙のことが知りたいのだ」
「私のことを…?」
「ここに記してほしい。お前の本当の名を。それが我ら親子の契りとなろう」
いつもの癖なのか周泰は起立したまま黙していて、やはり何を考えているのか分からない。
咲良は瞬きすら出来ずに、ただ孫権の青い目を見ていた。
筆が用意されている。
契約を結ぶ、誓いを立てるための書名である。
別に、名を隠すのに深い理由は無かった。
変わった発音をするからと、蘭華に止められていただけで。
陸遜や甘寧には既に知られているのだから、今更ではないか。
だが、いざとなると本名を明かすことは躊躇われた。
誰にも言えないが、胸につかえたものがある。
皆が受け入れてくれたのは咲良ではなく、楽師である落涙の方だろう。
音楽が無ければ、咲良はただの有り触れた娘なのだ。
(皆が、私の笛の音を気に入ってくれたから…だから、私は今、此処に居るんでしょう?)
咲良、と言う名に価値はない。
それでも孫権ならば、落涙を信じようとしている彼ならば、本当の落涙を理解してくれるかもしれない。
では、周泰は?
落涙を好いてくれたのかもしれないが、咲良の真実を知った時、彼は何を思うのだろうか。
(どちらも変わらないって。受け止めてくれたら…本当に嬉しいんだけどな)
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