確かなる幸福
今日は天気が良く、咲良は黄蓋の邸の庭の、綺麗な芝生の上に座って笛を吹いていた。
周瑜と小喬にプレゼントされた"悠久"という名の笛である。
早く慣れてしまいたいと、仕事の合間をぬって、時間を見つけては笛の練習していた咲良は、足音と微かな鈴の音を聞いて、ふと顔を上げた。
「よお、落涙」
「甘寧さん…おはようございます」
「あ?もうおはようの時間じゃねえだろ」
ふらふらと現れた甘寧に頭を下げたら、不思議そうな顔をされてしまう。
おはようの時間では無い…ということは、咲良は少しの休憩のつもりが、笛の練習に夢中になって、長居をしてしまったことになる。
「た、大変!私、もう戻らなくちゃ…」
「何だよ、行っちまうのかよ。せっかく会いに来たのに。まだ此処に居ろよ」
真面目に働かない娘だと思われてはならないと、慌てて邸に戻ろうとしたら、手を掴まれて…、咲良はどきりとしてしまう。
心底残念そうな顔をして、甘寧は咲良を引き止めようとするのだ。
わざわざ、会いに来てくれたなんて…、嬉しくないはずがない。
だが、月の明るい夜に、あんなことがあったばかりだから…咲良はまともに甘寧の顔を見ることが出来ない。
彼に好意を向けられていることは、鈍感な咲良にも分かった。
否応無しに意識してしまうのだが、甘寧は至って普通に話しかけてくる。
「他の女官に叱られるなら、俺が後で一緒に謝ってやる。それなら良いだろ?」
「でも、甘寧さんにご迷惑を…」
「何が迷惑だよ。良いから座れよ」
半ば無理矢理に丸め込まれ、咲良は甘寧の隣に腰を下ろす。
彼は機嫌が良いようだが、これといって大事な用があって訪ねてきたようには見えない。
甘寧ほどの人が、戦を終えて間もないのに、油を売っている暇など無いだろう。
ふと、咲良は甘寧の上半身に真新しい傷があることに気が付いた。
樊城の戦いで、新たに負った傷であろうか。
ちゃんと手当てをしなかったせいか、このままでは痕が残ってしまいそうだ。
「本当に、無事に帰ってきてくださって…良かったです…」
「ああ。またすぐ戦が始まるだろうが、少しぐらいはゆっくり出来るからよ。あんたもたまには、俺に付き合えよな。また、買い物とか…それが嫌なら何処か景色の良いところにでも…」
「そんなに良くしてくださらなくていいですよ。お気持ちだけで嬉しいですから…」
自然と遠慮をする、それは日本人の性なのかもしれないが、甘寧は納得いかないようで、溜め息をつかれてしまう。
「あんたが損な女だってことは知ってるが…いや、俺はまだあんたのことを知らねえんだ。だから、教えてくれよ」
「教える?私のことを?」
意図が掴めなくて首を傾げると、隣に座っていた甘寧はわざわざ咲良の真正面に座り直し、真っ直ぐに見つめてくる。
躊躇いがまるで感じられない、彼の強い眼差しを、咲良は好いていた。
しかし、今日の甘寧の瞳は微かに揺らいでいて、何かに悩んでいるかのような…どこか焦っているような、そんな印象を受けた。
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