鼓動を感じて
「落涙殿も、有難うございます。ゆっくりお話したいところですが…若輩者ゆえ、あまり余裕が無くて」
「いえ、こうして陸遜様にお会い出来ただけでも嬉しいです」
陸遜が忙しいと言うことは、やはり呂蒙も手が放せる状態ではないのだろうか。
長く陸遜を引き留める訳にもいかず、咲良は思い切って呂蒙について尋ねることにした。
「ひとつ…、お聞きしたいのですが、呂蒙様はお元気でしょうか?」
「呂蒙殿ですか?お元気ですよ。疲労は見えますが、呂蒙殿は誰よりも真剣に物事に向き合っておられます。私も見習わなくては」
「そうですか…、ありがとうございます。安心しました!」
陸遜がそう言うのだから…、大丈夫なのだろう。
ほっと胸を撫で下ろした咲良は、呂蒙様にお会いする必要は無くなりました、と隣に並ぶ小春に伝えた。
小春も、陸遜に会えて満足したようだ。
彼女の眩しいぐらいの笑顔に癒されていた咲良だが、陸遜がこっそりと苦笑したのには気が付かなかった。
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陸遜は元来た道を引き返していた。
直に起こるであろうの蜀との戦の策を練るためには、いくら時間があっても足りないほどに膨大な情報を整理しなくてはならない。
城へ戻ってからと言うもの、陸遜は仮眠を取りもせず、執務室に籠もっていた。
其処へ、呂蒙がやって来たのである。
後輩や部下に目をかけている呂蒙には、陸遜が行き詰まっていることなどお見通しで、彼は「俺が少し手を貸すから気晴らしでもしてこい」と陸遜を気遣う言葉をかけた。
陸遜は呂蒙の善意を受け取り、気分転換に外でも歩いてこようかと考えていたのだが…、思わぬところで元気を貰うことが出来た。
小春の愛らしい笑顔に癒されたのは、何も落涙だけではないのだ。
(落涙殿…、いえ、咲良殿…)
思うところが、多々あった。
樊城で捕虜とした、落涙によく似た…恐らく彼女の弟であろう少年は、城の離れに幽閉している。
捕虜にしては、その待遇は限り無く良いものだが。
少年の存在を知っている者は、軍師、あの場に居合わせた将兵…孫尚香と、ごく僅かである。
孫権や周瑜には事情を話してあるが、落涙には勿論、内密に扱うことが決定されている。
(…酷なものですね。私は…あなたを傷つけることしか出来ないのでしょうか)
今の落涙に事実を話せば、弟の生存を喜び、涙するはずだ。
だが、再会は許されないとなれば、悲しみの涙を流すのではないか。
容易に予想出来る彼女の泣き顔。
涙する姿を好んで見たいとは思わないが、やはり、彼女は涙がよく似合う人だ…と、陸遜はぼんやりと、懇意にしていた楽師の様々な表情を思い返しながら、執務室へ戻った。
「呂蒙殿、只今戻りました…呂蒙殿?」
不思議なことに、執務室の中は、しんと静まり返っている。
室内に足を踏み入れ、辺りを見渡した陸遜だが、書簡の量は減っているものの、肝心の呂蒙の姿が無い。
彼もまた気晴らしに出たのかと思ったが…、床に墨が滴っていることに気が付き、陸遜は顔色を変えた。
「呂蒙殿!?」
悲鳴にも似た声で呂蒙の名を呼ぶ。
まさかそんな…、嫌な予感は的中した。
卓子の影に、呂蒙が倒れていたのだ。
入り口からは死角になっていたため、すぐに発見することが出来なかった。
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