血まみれの胸
「そんなの…この子には関係無いわ。大人の都合に振り回されるなんて、可哀想じゃない」
「姫様…、どうか、分かってください」
「分かっているわよ!でも陸遜、どうしても捕虜にするならせめて、私に監視させて。この子を、ひとりぼっちにさせたくないの…」
一国の姫君が監視役に願い出るなど…褒められた行いではない。
陸遜の一存で決められることでもないが、出来る限り彼女の願いは聞き入れたかった。
誰よりも、孤独を、切なさを知る尚香。
彼女が少年を救ったのは、落涙に似ているから、それだけが理由ではないはずだ。
尚香は落涙の心を思い、涙を流しながら、凍えきった少年の体を抱きしめる。
今は、命を救うことが先決であろう。
だが、少年は今にも消えて無くなってしまいそうなのだ。
助けることも出来たはずなのに、此処で弟を死なせてしまっては、落涙に顔向けが出来ない。
「あっ!り、陸遜!見て…色が戻っていく…」
尚香が抱き締める腕に力を込めたその時、唐突に変化が訪れた。
陸遜も、驚きを隠すことが出来なかった。
まるで人形のように生気の無かった少年だが、少しずつ…頬に赤みが浮かんでくる。
一向に上がらなかった体温も上昇し、今度は逆に熱冷ましが必要なぐらいだった。
安心したのも束の間、酷い高熱だ。
しかし、これが本来の症状であろう。
少しでも、生存の望みを持つことが出来るのならばと、尚香は漸く笑みを見せた。
…それから、尚香は少年の傍から一歩も離れずにいた。
監視というよりは、姉や母のような心持ちなのだろう。
自分よりも幼い子供が傷付いているのを目の当たりにしているのだ、心優しい姫が、黙っていられるはずがなかった。
「良かったじゃないですか、元に戻って」
「凌統殿……」
「ですが、これからが大変でしょうね。軍師殿、あんたが尋問するのは、落涙さんの弟だ」
凌統の言葉は、陸遜の背に重くのし掛かる。
落涙は生き別れた弟の身を案じ、陸遜にも悩みを打ち明けていた。
健気な彼女のことを思えば、弟を荒っぽく扱うには少々心が痛む。
更に、この少年の出現により、落涙の謎がより深まってしまったのだ。
どうやら、命の危機に瀕した時に体が透けるようだが、未だ理由ははっきりとしない。
(咲良殿…再会を…叶えることが出来ず、申し訳ありません)
落涙は今も、陸遜や、呉の皆の帰りを待ち詫びているはずなのだ。
そして…、涙しているかもしれない。
今日も、愛しい弟の無事を、祈っている。
それでも、何も、陸遜の心には残らない。
人々を落涙させるという楽師の音色でさえ、陸遜の涙腺を緩ませることはなかったのだ。
樊城の戦いで呉が得た物は、輝かしい勝利と、ひとりの哀れな迷い子であった。
END
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