血まみれの胸
「しっかりしなさい!…え?ちょっとあなた…!?うそでしょ、どうして…」
生死を確かめる前に、尚香は、青年の青白い顔を見て驚愕した。
その男には、見覚えがあったのだ。
劉備の元へ輿入れし、すぐに尚香の使用人としてあてがわれたのが、此処に倒れていた男であった。
去勢を施された宦官であるゆえ、夫人の世話役に抜擢されたこの男は文官としても優秀で、常に一所懸命だったことを覚えている。
何故、と困惑しながら、尚香は冷たくなった唇にそっと指先を添えた。
どうか、生きていて。
その願いは一瞬にして打ち砕かれる。
なんという、酷い仕打ちであろうか。
彼は既に、此処には居ないのだ。
季節が数回巡る程度、蜀の皆と過ごした時間は限り無く短いものだった。
丁寧に作り上げられたもののような、幸せな時間。
何があっても忘れることがない、尚香の中に残る美しき思い出の中には、いつも愛しい人々の姿があった。
しかし現実は、記憶と同じように甘いものではなかった。
もう…戻ることは許されない。
尚香が愛した蜀は、滅ぼすべき敵国となってしまったのだから。
尚香は悲しみを押し殺すようにして歯を食いしばり、男を庇うようにして覆い被さる少年の体を起こす。
腕に抱き止めれば、肌は氷のように冷たかったが、心の臓は微弱ながら、とくとくと控え目に鼓動していた。
だがこのまま冷やし続けていては…、少年の命もすぐに危うくなるだろう。
針のように鋭く冷たい雫に打たれ続け、彼の体温は奪われ尽くした。
こうして抱き上げただけでも、肉体を覆う脂肪や筋肉は最低限で、あまり丈夫でないことが分かるのだ。
年の頃は、ちょうど、小春や…、阿斗と同じぐらいだろうかと、そう考えると胸が痛んだ。
護衛兵が布を広げ屋根代わりにし、尚香は自らの体温を分け与えるように少年を抱き締める。
幸い、傷を負ってはいないようだ(衣服に染み込んだ血は、男のものであろう)。
額に張り付いた髪の毛の雫を拭い、その顔を目にしたとき…、尚香は再び思考が停止しそうになった。
「らく、るい…?」
思わず零れた友の名は、雨に溶け行く。
真っ青な唇と血にまみれた胸元が、恐ろしいぐらい鮮やかに見えた。
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