血まみれの胸



冷たい雨が、降り続いていた。
恵みの雨ではなく、死を覆い隠す激しい雨であった。
今が朝なのか夜なのか区別も付かないほど、もう何日も、灰色の空と大地との間に挟まれ続けている。

尚香の耳に、敗走する関羽を捕らえたとの情報が届けられたのは、僅か数刻ほど前である。
直に関羽は処刑されるだろう。
魏の曹操は彼を欲していたようだが、忠義に厚い軍神が大徳と称される劉備を裏切り、呉に降るはずがない。
此度の戦は、魏呉同盟軍の勝利に終わった。


(…玄徳さま…)


じわじわと滲む赤色。
雨に打たれ震える自分はまるで濡れ鼠だ。

尚香は数人の護衛を引き連れ、残党を見付けては生存を確認し、息があれば苦しませぬよう、自らの手で命を奪っていた。
彼らは、劉備に仕えし者達。
一時は尚香を奥方と慕い、生まれた国の違う姫を、心から受け入れてくれた優しき人々なのだ。

凍えそうな指先に力を込め、尚香は圏を握り直す。
もともと赤を身に纏う尚香だが、返り血も雨が綺麗に流すため、どれほどの血を浴びたのか、分からなくなる。


(きっと…悲しまれるでしょうね。玄徳さまは純粋すぎるんだもの。権兄さまや呂蒙を恨み、復讐を果たそうとするかもしれない)


尚香には、分かるような気がしたのだ。
この戦が、後々呉蜀の間にどのような影響を齎すかなど、容易に察せることだった。
劉備にだって、分からないはずがない。
だが彼は、関羽は決して敗したりはしないと信じていた。

信頼する義兄弟や臣下に護られ、蜀を築き上げた劉備は、盲目的なところがある。
彼は純粋ゆえ、一度決めたら、真っ直ぐ前しか見ていられなくなるのだ。
その先に何があるか、後ろには何が続いているか…細やかな気配りを欠かさない劉備が、僅かにも目を向けることさえ出来なくなるのだ。


木々の隙間から、数羽の鴉が空へと舞い上がった。
雨音に混じった羽音は、悲鳴を上げているようにも聞こえる。
辺り一帯に充満していた死臭は、鴉が散らばった肉片をつついているからだ。

しかし…、暫く歩くうちに戦場から外れたらしく、付近には残党も戦の名残も見られなかったのだが…


「駄目よ!弓を置きなさい!」


雑音の中でも凛と響く尚香の声に、既に一本の矢を放っていた護衛兵は慌てて弓を下ろす。
ただでさえ視界が悪いというのに、急所を外れたら、どうするのだ。
これだけ気を使うのは、蜀に未練があるから、というだけの理由ではない。
いくら敵兵だとしても、敗者を苦しませて死なせることは絶対に許せない。

護衛を押しのけ一歩前に出た尚香の目に映ったのは、矢を見て興奮したらしい一頭の馬と、倒れ込む男、そしてもたれかかるように横たわる少年の姿だった。


(なに、あの恰好は…戦場なのに、平服?)


視界は悪く、尚香の位置から二人の顔は確認出来なかったが、身に纏っている衣服には疑問を持たざるを得ない。
彼らは戦に関わるべき者ではない。
兵では無いのならば尚更、死なせることは出来ない。

尚香はぬかるんだ大地を蹴り、急ぎ彼らの元へと走った。
傍に居た馬は鼻息が荒く、近付く者に襲いかかりそうな勢いだったが、尚香の姿を目にした途端に、大人しくなる。
もしかしたら、蜀に暮らしていた尚香のことを、覚えていたのかもしれない。


 

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