夢の底で死なせて



尚香は微笑み、阿斗の小さな手をそっと包み込む。
びくりと震えた阿斗を安心させるように、尚香は優しい眼差しを向けた。


「此処には愛する玄徳様と、そして阿斗、あなたがいるじゃない?幸せを約束されたも同然よ!」

「……、自信過剰な義母上だ」


与えられるのを待ってはいられない。
もとより、尚香はじっとしているのが苦手な質だ。
少しぐらい出しゃばったって、劉備は許してくれるだろう。
手を伸ばして、その先にある光を掴んで。


「…尚香よ。ひとつ、約束をしてくれ」

「なあに?」

「父上の身勝手な理由で、尚香が傷付くこととなった時があっても…、どうか父上を、見限らないでほしい。私はもう…母上を失いたくない」

「…ええ、分かったわ。絶対に大丈夫だから、心配しないで」


思えば、阿斗はいずれ訪れる悲しい未来を見越し、意地を張って心を隠しながらも、不安を訴えていたのかもしれない。

尚香が劉備と過ごした時間は僅か、季節が数回巡る程度であった。
赤壁の戦い後、呉蜀同盟は決裂する。
尚香は混乱の中、妹の身を案じた孫権の策により、心の準備をする暇もなく、故郷へと帰還することになってしまった。
やっとの思いで手にしたかに思えた目映いほどの輝きは、光を失ってしまった。


(…阿斗…)


血の繋がりが無くとも、阿斗は本当の弟のように、尚香の傍に居てくれた。
彼のおかげで寂しさは次第に薄れ、劉備との仲も至って良好で、いつしか家族の一員にもなれた気がしたのだ。

だが、阿斗と表面上は打ち解けたものの、一歩距離を置かれていたようにも思う。
きっと…いつか離れ離れになると、寂しい想いをすると、分かっていたから。


「尚香様、ご準備が整いました」

「そう…有難う。其処に置いておいて」


女の護衛兵が持ってきた、綺麗に磨かれた圏を手に取り、尚香は愛しい人の息子を想った。
これから対峙する関羽は、蜀の重臣。
激しい戦になることは間違いない。
だが、呉の軍師、呂蒙は確かな知略で関羽を追い詰めることだろう。

関羽を討ち取れば、劉備は嘆き苦しみ、呉に更なる憎しみをぶつけることになる。
そして、より激しい戦が展開するはずだ。
避けられない争いに、自分も、そして、阿斗までも、巻き込むこととなってしまう。


(あなたは今も悲しみを抱えて生きているの?傍にいてあげられなくて、ごめんなさい)


繋いだ小さな手を放してしまった、それが尚香の唯一の後悔だ。

戦が、始まる。
赤い血と悲しい涙が流れ行く、残酷な戦が。



END

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