夢の底で死なせて
此処には、愛する家族が居ない。
父は戦での傷が元で亡くなり、兄も、彼女が幼い頃に病死した。
次兄が後を継いたが、父や兄に比べ、彼は頭は良いが繊細で、思い悩みやすいことを妹は知っている。
孫尚香が孫権の命で劉備に嫁いだ時代は、魏国の勢い激しく、呉蜀が同盟を結ぶしか術が無かったのだった。
同盟の代償は、婚姻を結ぶ…つまり、尚香を人質にすると言うこと。
(私は…モノじゃないんだけどなぁ…)
孫権が苦渋の想いで妹を差し出したことなど、尚香にも容易に分かる。
それで孫呉のためになるならば、と。
(でも、私は家族から沢山の幸せを貰ったから大丈夫!知らない場所でのんびり暮らすのも、楽しそうだし)
成都城内に与えられた部屋で、椅子に腰掛けた尚香はぼんやりと、開け放たれた窓から空を眺めていた。
呉で暮らしていた頃に比べると正直、退屈なほど、静かなひとときを過ごしている。
舞踊よりも武芸を嗜む尚香だが、劉備の妻となった今、そのような行動ははしたないとされ、許されなかったのだ。
本来姫が纏う高価な衣装も、尚香には煩わしさしか感じられない。
(寂しい、なんて言えないわよね。自分で選んだ道なんだもの)
頼れる者は劉備だけ、しかし多忙な夫には、気軽に会うことも許されない。
見知らぬ場所、見知らぬ人々。
婚儀の際、他国の姫であるにも関わらず、祝福してくれた成都の民の笑顔を思い出せば、幾分か楽になれる。
彼らのあたたかい心は、劉備の人徳のなせる技なのだと、尚香は身を持って実感したのだった。
お茶がすっかり冷めてしまい、だがそれだけのために女官を呼ぶのも申し訳無いので、尚香は気にせず茶器に口を付けた。
慣れない味に眉を寄せ、それでも飲み干そうと口に流し込む。
そのとき、ふと、二つの瞳を見た。
喉がごくりと鳴る。悲鳴こそあげなかったが、驚いて茶器を床に落としてしまった。
がしゃん、と音を立てて割れた茶器の破片が床に散らばった。
「あ、あなた!?」
「かくまって!追われているのだ!」
窓から乗り込み、平然と言ってのけたのは、まだ幼い顔立ちの子供である。
建業の城で度々顔を合わせていた、姪の孫小春と同い年ぐらいであろうか。
突如として飛び込んできた男の子は、顔中泥だらけで、汚れた格好のまま部屋を歩き回るので、尚香は驚愕するばかりだ。
此処は二階、しかも厳重に警備されているというのに、よく侵入出来たものだ。
「尚香様!どうなされましたか!」
「なっ、何でもないのよ!」
今にも部屋に駆け込んで来そうな女官を押しとどめ、尚香は冷や汗を流しながら、もう一度部屋を見渡した。
床には割れた茶器は散らばっているし、男の子の足は泥や砂埃で汚れており、勝手に歩き回られたせいで、至る所に足跡が残されている。
…後で、何と言い訳すればいいのだろうか。
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