春風の愛撫




小喬は甘い香りの染み付いた服を脱ぎ、新しいものに着替えながら、落涙の寂しげな笑みを回想した。
あの娘は…、ただの少女であった。
自分なりに出した確かな答えを胸に、小喬は周瑜の部屋を訪れた。


「小喬。今日の君は、いつもと違う香りがするね。香を焚いたのかい?」

「ふふ、そうだよ?気に入らなかった?」

「いいや。私は君の香りも全て愛おしいと思っているよ」


ほんの微かに匂う…、これぐらいの残り香が、ちょうど良いぐらいだ。
慈しむように髪を梳き、惜しげもなく甘い言葉をくれる愛しい美周郎に、小喬は満足げに微笑んだ。
いつ見ても思うが、周瑜は誰よりも美しい。
今よりも幼い頃、周瑜に見初められた小喬は、彼の生涯唯一の妻となった。

自分でも、恵まれていると感じるのだ。
世間的に見て、喬家の息女である小喬は、生まれも良ければ育ちも良い。
姉共々に母から美貌を受け継ぎ、周瑜に嫁いだ後も、こうして何不自由の無い暮らしをしている。


「ねえ…周瑜さま…今日ね、落涙ちゃんとお話したんだ」

「本当かい?それで、彼女は何と…」

「ううん、大丈夫だったよ?あたし、何であの娘が疑われるか分かんない。そのぐらい、普通の可愛い女の子だったの」


密告…、悪い言葉で言えば、そうなってしまう。
周瑜が落涙に疑念を抱き、周泰を使って周辺調査…監視をしていることは内密だが、小喬は夫の口から事細かに知らされていた。
公私を混同しない周瑜だが、今回は違う。

周瑜が落涙の奏でる旋律を気に入っているのは事実で、彼女の身の潔白を証明したいと、小喬に相談したのだ。
小喬は夫の力になりたくて、願いを聞き入れた。
それが愛する人の望みだったから。

初めは、姪の師となった女性に疑いがかけられているなど許し難いことだと思った。
彼女に疑惑を抱く人間に対して、だ。
落涙は小喬が慕う姉の夫・孫策の法要で素晴らしい鎮魂曲を披露した楽師である。
孫策が亡くなってから、ずっと気丈に振る舞っていた哀れな大喬を救ってくれた、あの音色までが否定されたような気がして。


「ふむ、ではこの香りは…」

「うん。ある種の麻薬…かな?甘い香りは、大好きなんだけどね」


あれから一定時間は過ぎているし、周瑜が気付いた残り香には何の効果も無いが、小喬が焚いた香は特別なものであった。
香りで人を惑わせる…拷問などで、捕虜の口を割らせる際に用いたりするものに似ている。
初めに解毒薬を服用していた小喬に影響は無く、思惑通り、落涙を惑わせることには成功した。

しかし、彼女が胸に秘めていた、誰にも語らずに隠しておきたかった事柄とは、あろうことか…陸遜への恋心だったのだ。
だから、甘寧を好きになろうとしているのだと語った落涙に、小喬は、どう答えて良いかも分からなかった。
"片思い"や"恋心を捨てる"ことが小喬には全く理解出来なかったのである。


「周瑜さま…あたしのこと、すき?」

「どうした?小喬。当たり前ではないか。好きだよ、誰よりも愛している」


さらりと、だが周瑜の声や表情には、小喬への愛しさが溢れている。
偽り無き愛の言葉。
周瑜の胸に飛び込み、優しい腕に抱かれながら、小喬は、寂しげに笑う落涙を思った。


「あたしだけ、こんなに幸せで良いのかな?あたしの幸せ…みんなに、分けてあげられたら良いのに」

「優しいのだな。だが小喬、君の幸せは君自身が手に入れたものだ」

「ううん。あたしは、周瑜さま以外のひとを好きになったことがないの。これからも、周瑜さま以外のひとを好きにはなれないと思う。周瑜さまが一番だもん。だからね…片想いの苦しみも、切なさも、分かってあげられない」


愛されるのも才能だ、と周瑜は言うけれど、無償に与えられる愛情に後ろめたさを抱いたのは、生まれて初めてだった。
周瑜は最後に「落涙殿から監視を外そう」と約束してくれた。

これから、彼女のために何が出来るだろう?
小喬が願えば、周瑜も知恵を駆使して一緒になって考えてくれる。
もしも、いつの日か、落涙が窮地に立たされる時が来たなら…、小喬と周瑜は迷わず彼女の味方に付くはずだ。
幸せを与えられないのならば、それ以上の苦しみを味あわせないように。


END

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