波間に映る



まさか、己が主から離れる日が来ようとは…、今は亡き孫策に命じられた日から今日まで一度たりとも、想像すらしたことがなかった。

周泰は内心で嘆くばかりだ。
わざわざ身を守る必要も無いであろう楽師、しかもただの娘の護衛役などに、何故、あえて自分が選ばれてしまったのか。
他にも適役が居るのではないかと、いくら忠実な周泰でも、二つ返事で受け入れることは出来なかった。

周泰にその任を命じた者は、過去に多くの戦を指揮し、大功をあげ、今では若い軍師達に全てを委ね、自らはたまに助言をするぐらいで、静かに隠居生活を送っていた周瑜である。
突然呼び出され、告げられた内容は…、孫策の息女である孫小春の笛の師として城に滞在している落涙という娘を、護衛の名目で"監視"することだった。

そこで、多くの疑問が生まれた。
周泰は法要の日に落涙の音曲を耳にしているが、彼女が監視をしなければならないほど危険な人物とは思えなかった。
既に、姫君の師を任されているのだ。
疑惑があるならばそのような暴挙、皆が止めているはずだ。

そして、周泰が本来の役目を果たせず、主の身が危険に晒されることになっては元も子もない。
だが、孫権自らが周瑜に許しを出さなければ、此処まで話が進んではいないだろう。


「私も、あのように美しい旋律を奏でる落涙殿が間者だとは思っていないよ。だが、残念ながら、彼女には幻術師の可能性があるようでね。だからこそ君に命じているんだ」


得体の知れない者。
もし、万が一ではあるが、彼女が悪意を持って術を仕掛けた場合、普通の人間では避けることさえかなわない。
周泰は武芸に長けている。
いざという時、彼女の自由を奪い拘束することが出来る唯一の存在だと、周瑜は周泰の能力を評価し、信用して命じているのだ。

周泰は幻術など、不可解な術に精通している訳ではないので大きな事は言えないが、彼女が使い手ならば、甘寧の件で事故に巻き込まれ、死の淵をさ迷う傷を負った事実が、矛盾するのではないだろうか。


「長期の休暇だと思ってくれても構わない。だが、君の目でしかと確かめてほしい。彼女が少しでも、怪しい素振りを見せたなら…」

「…御意…」


納得出来ない疑問ばかりで頭が痛くなる。
落涙など、どうでも良かったのだ。
ただ、孫権のことだけが気掛かりだった。





周泰が落涙の監視役となり、早くも数日が過ぎた。
今日も変わらず小春に笛を教える少女。
周泰は壁に背を預け、姫の奏でる笛の音を耳にしながら、落涙の姿を見ていた。


(…潔白としか…いや…)


誰が言い出したのかは知らぬが、落涙が孫呉に害を及ぼす者だとは到底思えなかった。
それ以前に、周泰は初めて彼女の笑みを見た時に、疑うことすら馬鹿馬鹿しいと思ったのだ。
どこをどう見ても…、ただの娘である。
口下手で表情も疎い男に、もっとと話をせがむ、少し変わった娘。

そうなれば、時間の無駄である。
一刻も早く孫権の元へ戻りたいがしかし、任務を途中で投げ出すことなど出来なかった。
間者ではなくとも、幻術師かもしれない。
その確実な証拠を掴まなくては、この窮屈な生活はいつまでも続くのだ。


 

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