悲しみの影



「…わたし…自分が情けなくて、嫌になってしまいます。伯言さまは、必ず帰ってくると仰られていたのに…、これでは、伯言さまに見合う妻になれません」


常に懐に閉まっているという櫛を手に、小春は泣きそうな笑みを見せた。
きっと…彼女はその櫛で髪を梳くことはほとんど無いのだろう。
小春にとっては、大切な宝物なのだ。
まるでその櫛が陸遜の分身であるかのように、壊れ物のように大事に扱っている。

小春が弱音を吐こうとしなかったのは、祝言を挙げて正式に陸遜の妻になった際、彼の隣に並ぶに相応しい人間となるためだ。
彼女の心の大部分は陸遜が占めている。
彼の無事を祈るあまりに、不安や心配事が悪夢となって現れてしまった。
陸遜がまだ城に居た頃は、小春は幸せそうに笑っていたのだから。


「夢だから割り切るべきだとか…、私などが簡単に言えることではありませんが、今、小春様に出来ることは…陸遜様を信じて、無事に帰還されるのを待つことだけでしょう?」


悠生との再会の日をずっと待ち望んでいた咲良は、想いが叶わなくても信じ続けるということが、どれほど辛いか…、身を持って知っているつもりだ。
弟を見つけ出すことは難しいと理解していても、心のどこかでは、期待している。
相反する気持ちが、同時に存在している。
それでも、咲良が一番に願うことは、悠生が姉の代わりに心許せる人を見つけ、笑顔で暮らしていることだ。


「小春様が陸遜様を想われる気持ちが本物だからこそ、その不安は簡単には消えないでしょう。信じることって、凄く勇気が要る行為ですよね。これで良いのかって思うことも、ありますが…でも、信じる努力は出来ると思うんです」


心に次々に浮かぶ、多くの言葉を小春に伝えながら、咲良は自身にも強く言い聞かせていた。
…どうか、無事でいてほしい。
願わくば、再会の日が訪れますように。
一目でも、元気な顔を見れたなら、不安は一度に消えるから。


「伯言さまは、わたしに嘘を付かれたことが無いのです。わたしがこうして不安を抱くこと自体、伯言さまを裏切ることになってしまいますね」

「そ、そんなことは…」

「いいえ。わたしはまだ未熟なのです。ありがとうございます。落涙さまのお言葉、胸に響きました…。夢などにとらわれず、伯言さまが無事にお帰りになられる日を待ち続けようと思います」


それに…、と小春は小さく呟いた。
黒々とした大きな瞳で見つめてくる小春があまりに可愛くて、咲良はきゅんと胸を高鳴らせる。


「落涙さまに大好きと言っていただけて、嬉しいです。わたしも、落涙さまをお慕いしております」

「小春様……!」


思わぬ告白に感激した咲良は、たまらなくなって思わず小春を抱きしめそうになったが思いとどまり、その手をぎゅっと握り締めた。
小春が笑ってくれたことが、嬉しかった。
やはり、笑顔の方が何倍も可愛らしい。

同時に咲良は、自分の中で何かが吹っ切れたような気がしていた。
小春が陸遜を愛する気持ちは真剣で、純粋である。
本気で誰かを愛したことがない咲良は、小春の足下にも及ばないと理解したのだ。
心から好きだと思える人に出会えたら、咲良も小春のような不安を覚えたりするのかもしれない。
本当の、恋をすることが出来たなら。


(それじゃあ私は…、甘寧さんの帰りを待とうかな?)


小春とは比べものにならないほど短絡的ではあるが、不思議と心が軽くなったように感じる。
甘寧のことを考えながら、小春の恋を応援するのもまた、楽しいかもしれない。

フルートのケースにくくりつけられた鈴は、一日に何度も目に入り、咲良はその度に甘寧のことを思った。
豪快で、遠慮も無ければ容赦もしない…そんな彼の、真っ直ぐな瞳だけは、素直に好きだと言える。
彼が戻ったら、まずはお帰りなさいと言って、それから……、なんて、自分の恋愛について思案していたら急に恥ずかしくなって、咲良は途中で考えるのをやめてしまった。


END 

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