悲しみの影
その日はいつもと少し様子が違った。
何の前触れもなく咲良の護衛となった周泰の視線のせい…と言う訳でもなく、部屋の空気が異様に重く感じられるのだ。
小春への笛の指南も、普段通り順調に進んでいたはず、だったのだが…、
「あのー、小春様?」
「……、」
「あ、あれ?」
今日の小春は周泰以上に無口である。
いや、周泰は無口であれ必ず返事をしてくれるが、咲良は小春に無視され続けているのだった(と言うより、心此処に在らずといった様子である)。
咲良が小春の笛の師になってから、随分と日が過ぎていた。
付き合いも長くなれば、相手がどれほど偉い立場にある人でも、打ち解けるものだ。
現に小春は咲良の話を…音曲に関してや、蘭華の店で楽師として過ごしていた頃の思い出などを聞いてよく笑うし、練習を嫌がる様子は少しも見せない。
小春の笛の腕前は咲良から見ても素晴らしいもので、将来的には表現力のある優れた奏者になるだろうと、咲良は嬉しく思っているのだ。
上達の早い子に教えるのはとても楽しい。
だが、今日の小春は咲良の言葉も右から左へ通り抜けているようで、笛の音もビブラートをかけるまでもなく、不安定に揺れていた。
(どうしたんだろう。具合が悪いのかな…?)
咲良はすぐに、体があまり丈夫ではなかった弟のことを思い出した。
悠生の場合、このようにぼうっとしているのは、熱を出す前兆だった。
まだ幼い小春は毎日習い事に忙しく、十分に休めていないのかもしれない。
無理をさせて、倒れられたら大変だ。
意を決し、休んでもらうよう声をかけようとした咲良だが、あろうことかその瞬間、小春の瞳から一粒、涙が零れ落ちた。
「小春様!?」
「あら…、申し訳ありません…」
「いえっ、ご体調が優れないのでしたら、今日はこのぐらいで…」
ぎょっとして、咲良は驚きのあまり硬直してしまう。
まさか、泣かせてしまうなんて。
原因は分からないが、姫様に涙を流させるなどと、あってはならないことである。
しかも、周泰は現場をばっちりと目撃している訳で…咲良は本気でパニックに陥りそうだった。
慌てふためく咲良を余所に、小春は指先で涙を拭うと、笛を静かに卓に置いた。
「周泰将軍…申し訳ありませんが、少々席を外していただけませんか。落涙さまと二人になりたいのです」
「…ですが…」
「将軍、お願い致します」
常に穏やかな小春の口から発せられた強い声に、周泰も異変を感じたのか…、それに、姫の命令を無視する訳にもいかず、彼は黙って部屋を出た。
しかし、咲良は困惑を隠しきれない。
小春と二人きりで過ごすことには慣れていたはずなのに、周泰を交えている時以上に気まずいのは何故だろうか。
[ 86/421 ]
[←] [→]
[戻]
[栞を挟む]