夕べの星



「私は、咲良…それが、私の本当の名前です」

「"咲良"……咲良…、咲良殿、それが、あなたのまことの名なのですね」

「そ、そんなに連呼しないでください!恥ずかしいじゃないですか!」


その響きを確かめるように何度も何度も、陸遜は咲良の名を繰り返し呟いた。
恥ずかしいからやめてほしいと願っても、陸遜は咲良の複雑な胸中などお構い無しに、名を呼ぶのだ。
まるで、穴が空いてしまったこれまでの時間を、取り戻そうとするかのように。


「咲良殿」

「は…、はい?」

「…いえ。良き名だと思いましてね。とても美しい響きだと思います」


友達、とは。
なってください、とお願して得るものではなかったのかもしれない。
こうして、隣あって座っている、同じ時間を共有している…、それだけでも二人は既に、友達なのだ。


「陸遜様…私、教養が身に付いていないのでこういう時、何て言ったら良いかよく分からないんです。だけど私は…陸遜様のご帰還をずっと、お待ちしています。どうか、御武運を…」

「上出来ですよ。咲良殿…ありがとうございます」


珍しくも、子供のような笑みを浮かべる陸遜が可愛く思えて、どきっとしたけれど、咲良は心から救われたような気がした。
同時に、朧気だった想いがはっきりとする。
…誰にも、明かしてはならない。
胸に抱いてしまった彼への恋心を…、この戦が終わるまでに、断たなければならない。
再びまみえる時に、ちゃんと笑って、出迎えることが出来るように。



━━━━━



陸遜は今でも、落涙と交わした言葉の全てを、覚えている。
彼女は他の女性とはどこか違う、不思議な人で…、特別なひとときであったのだ、落涙…、咲良との語らいは。

必ず、無事に帰ってこよう。
孫呉のために戦い、小春の元へ帰るのだ。
そして…涙を浮かべる人…、本心から、帰還を望んでくれているのならば。


(おひとりで…泣かないで、くださいね)


明日には出陣を控えている身である。
戦が長引くことは、あまり好ましくはない。
だが、この罪を…、小春への裏切りとなる落涙への淡い想いを断ち切るには、絶好の機会であるのもまた事実。


(…落涙殿…)


彼女の涙を拭うのは、己の役目であったと…何を勘違いしてそう思い込んでいたのだろうか。
落涙への親愛の情は、本来、生まれるべきではなかったのだ。
決して、悟られてはならない。
再び歩み寄ることが出来た…、それだけでこれほど、満たされているのだから。


「咲良殿、私が居ない間、どうか小春殿のことを…、」

「はい、私にお任せください!私も、小春様に笛をお教えするのは楽しいんですよ。陸遜様がお帰りになる頃には、今以上の腕前になっていることでしょう」

「…ええ。咲良殿と小春殿が奏でられる旋律、早くお聴きしたいです」


笑顔で見送られるのが、一番嬉しいのだ。

涙を流したいなら、少しの間、我慢して。
あなたが愛した彼の前で泣いてください。
…独りで泣いたら、承知しませんから。


END

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