まだ見えぬ人



「落涙様…本当に宜しいのですか?孫策さまのためとは言え、あなたが笛を吹いたら…」

「大丈夫ですよ、大喬様。私は、孫呉の奏者なんですから!」


皆の役に立てない楽師に、価値はない。
苦しむ孫策の姿を見ているのに、咲良の身をも案じてくれる大喬に、悲しい想いをさせてはならない。
覚悟を決めた咲良は、ケースから笛を取り出した。
悠久なる旋律を奏でることが出来る笛だ、きっと、この悪しき障気を取り払ってくれる。


(私にしか出来ない、音楽を奏でることが出来たら…)


壇ノ浦の戦い…源氏と平氏の、最後の戦である。
大きな戦だったのだろう、多くの兵が死に、民は傷付き、海は汚れ血に染まった。
戦国時代は、どうであっただろうか。
美しさを取り戻したはずの海は、今また、こうして闇に蝕まれている。
人の勝手で自然の美しさが失われる…過去も未来も変わらないが、悲しいことだ。


(散っていった人達の魂を、天に返すことは出来なかったのかな?皆、ずっと此処で苦しんでいたんでしょう?)


平家の首塚は、彼ら一族の魂を鎮め、慰めることを目的としていた。
この地に彼らの怒りと悲しみを封じ込めた結果、遠い昔の出来事のように、人々に忘れ去られてしまったのかもしれない。
しかし、大いなる野望を抱いて清盛は復活してしまった。
首塚は壊れ、壇ノ浦の地には絶望を訴える将兵らの怨念で満たされている。


(辛かったよね…でも、いつまでも此処にとどまり続けたら苦しみが長引くだけだよ…!私の音色が聴こえたら、どうか…)


それほど長く生きている訳ではないが、咲良は幸せというものを知っている。
大好きな人と同じ世界に生きること、それが本当の幸せだ。
どれほど生き辛い世にあっても、自分一人じゃなければ前向きな気持ちになれる。
しかし、戦はその幸せをも打ち壊してしまう。
乱世に生きることは恐ろしいかもしれない。
それでももう一度、人として生まれ変わってほしい。
苦しみが溢れる世界だとしても、辛いことばかりではない。
小さくても、きっと幸せが見付けられるはずだから。

咲良が奏でる旋律は、遮るものもなく、天高くまで響いていった。
落涙の奏でる音、それは死者の心の琴線をも震わせる、天の国の音楽となっていた。
目を閉じ、祈りを込めて笛を吹いていた咲良にも、柔らかな光が見えた。
ぱあっと溢れ出した輝きが地を照らし、一陣の風となって壇ノ浦の地を駆け巡る。

光と風が、地に埋もれた首塚を見つけ出した。
一際、周囲は濃い障気に満ちているようだった。
やはりこの破壊された首塚が原因で、壇ノ浦は死地と化していたのだ。
悠久の旋律が微かな余韻を残して消えた時、おぞましい障気も一緒に消滅した。
行き場を失い、さ迷い漂っていた魂は、光に導かれるようにして天へと昇っていった。


 

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