まだ見えぬ人



広大な海が、眼下に広がっていた。
海原は白い泡を立てて激しく波打ち、命ある者を冷たい海の底へ引きずり込もうとしているかのようだった。
空は厚い雲に覆われ、陽の光が射し込まず、昼間だというのに靄がかかった薄暗い闇がはびこっていた。

更には、あろうことか…咲良の目には、周囲に漂う、まがまがしい障気が見えてしまったのだ。
皆は湿っぽい空気に顔をしかめ、気分が悪いと体調の不良を訴えるぐらいだが、このまま触れていたら身体は蝕まれ、いずれ死に至るだろうと、咲良は率直に感じ取って、恐怖に身を震わせた。

壇ノ浦の地は、既に地獄と化していた。
あれらの障気を作り出したのが、黄泉より蘇った清盛だと言うのだろうか。
大望を抱いて平安の世を生きた英雄は、今では恐ろしい野望を胸に、世界に混沌を齎そうとしている。


「これは、酷えな…、咲良、お前は阿春のところに戻った方が良いな。あいつにこんなもの、見せられねえ」

「孫策様……」


孫策は口元を抑え、そこら中に転がる遺体に手を伸ばした。
異臭が鼻に突き、死後数日が過ぎていることが分かる。
兵達が民の遺体に布を被せている間、咲良は大喬や孫策の後に続いて辺りを見回していた。
旅の疲れで眠ってしまった千春は馬車に残してきたが、目覚めて外に飛び出さないよう、孫策は咲良に馬車に戻るようにと告げる。
しかし、あまりに衝撃的な光景に、すぐには足が動かない。


「なんて惨いことを…、力無き民に、どのような罪がありましょうか」


大喬は民の哀れな末路に胸を痛め、酷く苦しげな顔をしていた。
生存者の姿は何処にも見当たらず、身の朽ちた遺体ばかりである。
目立った外傷が無いとなると、やはり彼らは原因不明の病に倒れ、死を迎えたとしか考えられない。


「とっとと首塚を探すか…この嫌な感じは、恐らく首塚のせいだろうからな」


孫策が兵に指示を出し、自分もまた首塚の捜索に向かおうとしたその時、彼の身に異変が起きる。
あっと言う間のことで、咲良は声も出せなかった。
孫策に向け、立つこともままならない突風が吹いたかのように、深い闇の塊が容赦なく襲いかかってきたのだ。


「う…ぐっ…!?」


まるで、意志を持つ毒霧に、呑み込まれてしまったかのようだ。
苦痛に呻いた孫策は、訳も分からずよろめいてしまう。
胸を押さえ、力無く崩れ落ちる孫策の姿を見て悲鳴をあげた大喬は、慌てて傍に駆け寄った。


 

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