熱情の使者
遠呂智軍の残党討伐に関する報告書を纏めていた甘寧は、先程から筆が進まず、ぽたぽたと竹簡の上に墨が滴っても、気にも止めなかった。
視線の先にあったのは、散らかったまま放置していた執務室の片付けをしている、甘寧が長らく想いを募らせていた楽師の少女だった。
いや、もう少女ではないのだろう。
知らない間に、落涙は大人の女となり、甘寧の手の届かない存在となってしまった。
「甘寧さん?墨が…手も汚れていますよ?」
「あ?…ああ、悪いな」
ぼうっとしていたため、彼女が心配そうに顔を覗き込んでいても、すぐには返事が出来ない。
落涙は手拭いを持ち出し、墨にまみれた筆を置くと、同じように墨に汚れた甘寧の手を丁寧に拭いた。
このような、女官や使用人の仕事をさせるべきではないと思っているのだが、将軍の妻となってしまった落涙を傍に置くためには…理由を付けるしかなかったのだ。
もう、落涙の心は手に入らない。
愛おしそうに娘を抱く彼女を見ていたら、この想いは諦めなければならないのだと…分かってはいるのだが、素直に身を引けるはずがなかった。
「…甘寧さん?」
目の前で揺れる黒髪に、汚れていない方の指を絡めたら、落涙は驚いたようだが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
その笑みの中に、かつて自分に向けられたという落涙の"恋心"はもう、存在していない。
「…いや、な。勿体無いことしたと思ってよ。何であんたをモノにしておかなかったんだって。こんなに別嬪になるって、反則だろ」
「別嬪!?そ、そんなことを言われたの、初めてです」
「何だ、初めてなのか?あんたの旦那には?」
「言われて……でも、そういうことは、あまり口にしない人でしょう?」
微かに頬を染める落涙を見て、話題を出したのは自分なのだが、甘寧はむっとし、同時に悔しくなってしまった。
横から落涙を奪ったあの男は、甘寧も知らない落涙の様々な表情を目にしていたことだろう。
夫を想い、頬を赤くして俯く落涙。
見たこともない…見たくもなかった顔だ。
他の男に恋い焦がれる落涙など、見ていたくない。
「知らねえよ。俺は…あんなつまらなそうな奴のこと、認めてねえ。いったいどこが良かったんだ?どうして、俺じゃ駄目なんだよ」
「……、」
じっと見つめて問い掛ければ、落涙は困ったように目を逸らした。
甘寧はそんな彼女の手を握り締め、答えるまで離さない…と子供のように訴えた。
我ながら、意地の悪い質問だと思う。
優しい落涙は、甘寧を傷つけないようにと、必死に答えを探しているのだろう。
そんな都合の良い答えなど、あるはずがないのに。
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