夜空に響く
なんて、悲しい詩なのだと思った。
愛しい人を失っても、辛く苦しいのはその時だけで、いつかは忘れてしまう。
所詮、人間の心はその程度だ。
でも、俺様は違う…、人じゃないんだから。
「よく泣く子だね…桜ちゃんは」
屋敷に戻る最中、俺様の腕の中で桜ちゃんは静かに寝息を立てていた。
無理に連れ出したんだ、仕方がない。
姫様の部屋に戻り、敷いてあった布団に桜ちゃんを寝かせる。
安心しきった寝顔には、涙の流れた跡が残っていた。
「……、」
身分を考えれば当然、忍び風情が一国の姫君に触れることは許されないのに、今日の俺様は抑えがきかず…つい、手を出してしまった。
そっと花の簪を外して、卓の上に戻した。
さらさらと流れる黒い髪に、軽く口付けを落とす。
とっくに捨てられたと思っていた簪を、慣れない手つきで飾ってくれた、桜ちゃんをとても可愛いと思った。
頬を撫でれば、ぴくっと睫が震えたが、目覚める気配はない。
…俺様が予想していたよりも早く、桜ちゃんはボロを出した。
あんな乱暴な言葉を桜ちゃんに言わせてしまったのは、やっぱり俺様のせいなのかな。
だけど、まだ追求はしない。
真実を知るには、いちいち手段を選んではいられないんだけど、もう少し…あと少しだけ、様子を見ることに決めた。
(可笑しな事を言う…。忍びだって人間、本当にそう思っているの?)
少なくとも桜姫様はそんな考え、持っていなかったよ。
そのような…甘い考えは。
忍びの手は血色に染まっていると、姫様は俺様の汚れた手で触れられることを、全身で拒んでいた。
桜姫様ともあろうお方が、気付かないはずがないだろう?
今日なんか、任務の後だってのにさ…本物の姫様だったら、汚れた俺様に身を委ねる訳がない。
あんた、誰なの?
本名は?年齢は?
どうして桜姫様のふりをしているんだ?
優しくなんかないよ、俺様の手は。
姫様が言うとおり、血を浴び続けたこの手は、いくら洗っても落ちることがない死臭がこびりついている。
人の命を奪う、汚れた手だ。
綺麗な君の手と重ねることは叶わない。
なのに、髪を撫でても、…抱き締めても、桜ちゃんは拒絶したりしなかった。
嫌がる素振りもなく(恥ずかしがってはいるようだ。耳が赤いから)、受け入れてくれる。
俺様は己の気持ちを整理出来ないでいる。
悩むことは苦手だっていうのに、いつも姫様は俺様を惑わせ、困らせてばかりだった。
そして、今も。
俺様は姫様と桜ちゃんの間で揺れている。
どっちの貴女が本物?
俺様自身が望んでいる答えは、どっちなんだろう。
「ねえ姫様、少しでも俺様を許す気があるなら、帰って来てよ…頼むから、謝らせて」
眠る彼女の額に唇を落として…、静かに部屋を飛び出した。
桜ちゃんと見た月に魅せられた。
明かりなんて闇を生きる忍びには邪魔な物なのに、初めて心から、綺麗なものだと思えたよ。
彼女が隣にいるだけで、こんなにも違って見えるんだ。
(桜姫様……)
俺様の唯一の後悔は。
"桜"という娘が、あろうことか甲斐の国を治める大将に愛されてしまったということ、だけだ。
END
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