些細な日常



「桜。儂を、父とは呼ばぬのか?」

「え…えっと…」


そうだった、信玄様は桜の父親。
実の娘がお父さんを、他人行儀に"信玄様"だなんて呼ぶのは、おかしいだろう。

でも、オレには呼べない。
頭では分かっていても、無理なものは無理だ。
オレは桜になりきって、彼女の代わりに姫の代役として生きるつもりだ。
だったら、甲斐の姫ってだけではなく、武田信玄の娘にならなくてはならない。

でもさ…この人は教科書にも載っているような日本の偉人な訳で。
その武田信玄公を、父と呼ぶ度胸がオレには無かった。


「私…今はまだ…」

「分かっておる。おぬしが謝る必要はない。些か寂しいが…、儂は桜が元気ならば、それでいい」


信玄様は大きな手で桜の手を包み込んだ。
ごつごつしているのに、優しくて、温かくて……泣きそうになった。
桜を想ってくれる人が側にいるという事実は、不安に怯えていたオレの心を救ってくれた。

ごめん、桜、訂正させてくれ。
ひとりぼっちなんかじゃ、なかったな。



「桜ちゃーん、俺様と一緒にお茶でも飲まない?」

「さ、佐助さん!?」


信玄様が部屋に戻られて、オレも戻るかーとぼんやりしていた矢先のことだ。
あ、足音聞こえなかったんですけど!
ここの廊下、普通に歩いてもきしむのに…

お盆に湯気のたつ湯呑みを乗せ、軽い足取りで近付いてくる佐助さん。
当たり前かもしれないけど、屋敷の中でも忍者の格好でいるんだな。
今は仕事中のはずだけど、抜け出して来て大丈夫なのか?


(…桜に会いに来てくれたのかもな)


なんだかんだで佐助さんは心配性っぽいし、記憶を失っているとはいえ、家出しがちだった手のかかる姫様から目を離せないっていうのが本音なのだろう。


「ふふ…ありがとうございます」

「良いことでもあった?何だか嬉しそう」

「えへへ。とりあえず笑っていようと思いまして」


桜を苦手としている方々に笑顔を振りまくんだ。
笑顔で接していれば、嫌な気持ちになる人はまず、いないだろう。
避けられても、影口を叩かれても、にこにこと笑って挨拶をすれば皆、いずれ分かってくれる、そう期待する。

桜は恐い子じゃないよ、本当は仲良くしたいんだよ。
最終的にはオレが桜の不器用な性格を変えることが出来たら、万々歳なんだけどな。


「あ、このお団子美味しい!」

「旦那の行きつけの甘味処のだからねー。桜ちゃん、気に入ったなら、これ全部食べちゃっていいよ」

「えっ、それは幸村様に悪いんじゃ…」


幸村様、甘いものが大好きな人だったはずだ。
怒らせるかもしれないと不安になって佐助さんを見つめたら、「いいから、二人だけの秘密ね」と言葉を返された。

ごめんなさい幸村様。
美味しいお団子の味を知ってしまった以上、オレの旺盛な食欲は止められない。
今日のところは、佐助さんと二人だけの秘密ってことで…!



END

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