生命の鼓動



昨晩の雨嵐で、見事に咲いていたはずの桜は、見るも無残に散り尽くしてしまった。

多くの戦で功績をあげ、世に名の知られていた北条、の現在の当主は何処か間の抜けた老人であった。
当初、小太郎が北条氏政に仕えることを決めたのは、ただ単に報酬が目当てだった。

高額な契約金で雇われた小太郎だが、先日、桜が見頃だと氏政に連れ出された。
まさか、主と二人きりで花見をすることになるとは。
彼は桜の木の下で忍びの自分と酒を酌み交わし、返事が無いことも分かっているはずなのに、他愛ない言葉を何度も語りかけてくる。

おかしな老人だ。
だが改めて、守らなくてはならない人だと実感した。



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武田、上杉が同盟を結んでから既に十年以上の年月が過ぎている。

小太郎は氏政の命で、両軍の情報を集めていた。
精力的に領地を広げようとはしなかった氏政だが、近頃その受け身な体制に変化が生じた。
いつが攻め時か…頃合を見計らっているのだ。
しかし、有力な情報は手に入っていない。




森を抜けるため、小太郎は軽やかな無駄の無い動きで木の枝を蹴っていた。
一般人の肉眼では追えない速度、その姿はまるで、空を舞う黒鳥のようだ。


「……、」


視界の端に飛び込んできた、花。
思わず足を止める。
僅かな気配をも悟られないように細心の注意を払い、小太郎は鮮やかなものを見下ろした。

近くに川があるためか、森の中に湧き出た水溜まり(と言うよりは小さな池)に浸かる、長い髪の少女。
死体ではないだろう、気配が感じられるから。
水面には赤や黄、そして桜色の花弁が散り、少女の周りを囲んでいる。

素直に、美しいと思った。
普通に考えれば異様な光景だが、目をそらせないほど素晴らしい芸術品のように見えたのだ。

何かに心奪われる経験が無かった小太郎は、己の感情に少なからず戸惑いを覚えた。
彼女は…何者だ?


…これは耳にした噂だが、武田の姫君は巫女に似た力を持ち、各地を巡り、霊を慰めているという。
小太郎自身、霊の類は信じていないし、霊能力者が戦の要になった事はほぼ無い。

そして、武田の娘は評判が悪いのだ。
笑顔を知らない人形。
心の無い恐ろしい姫。
遠く離れた国まで悪い噂は広まり、甲斐の民も、自国の姫を快く思っていない。


「……、」


武田の、桜姫。
間違いないと確信をする。
姫でありながら放浪し、危険の溢れる世をたった一人で(流石に護衛の忍びはついているだろうが)出歩くなど異常、馬鹿のする事だ。

此処で小太郎が彼女に手をかけても、何ら問題無かったはずだ。
だが何故か小太郎は、美しい森の一部となっている花の姫君を壊すことはしたくなかった。
氏政に命令されたならば話は別だが、今日は偶然通りかかった森で、偶然見掛けた女が敵国の姫だっただけだ。

小太郎はその夜、桜を見逃したことを、闇の中で一人、後悔した。


 

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