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予想された痛みも衝撃も、一向に訪れない。
死を覚悟していたティアナはえっとなって目を開く。
そこには変わらずベルントが立っている。けども、振り下ろされた筈の剣は未だ天に掲げられたままだ。まるでその場に見えない糸で縫いつけられているかのように、彼は動かない。
不愉快そうに顔が歪み、視線を右にやった。
「……これは何のつもりだ、《東雲》殿」
「……シノノメ?」
あれ、その言葉、何処かで聞いたような気が――――。
「奇異なことを仰いますな。各々の判断に任せる……とは、あなたの言にございますれば、私はそれに従っただけのこと」
淡々と、張り詰めた弦のような声が静かに広がる。
そこに一体いつからいたのか。
凛と佇む女性が在った。
年の程は、マティアスよりも少し若いくらい。空の色を映し出したが如き髪はうなじで二つの三つ編みにされ、膝裏辺りまで垂れて風に揺れている。真っ白な肌に漆黒の瞳やリンゴみたいに赤く熟れた唇は良く映えた。青で統一された衣服は何処か有間の衣服に似ており、その人物はヒノモト出身であるらしかった。
彼女がベルントに何をしたのだろうか。細身の身体に細身の剣を携えて立つその女性は、ティアナとマティアスを一瞥すると、剣を抜き去って大股に歩きベルントの首元に切っ先を突きつけた。
「……何のつもりだ」
「この東雲鶯(うぐいす)、今この時よりファザーン第一王子マティアス殿下にお味方致す」
「花霞姉妹の意に背くつもりか」
「幼少の砌(みぎり)、主への忠義よりも重き大儀を背負うておりますが故」
今は亡き我が兄のご遺志に沿う為に。
玲瓏(れいろう)とした声音で宣言した女性――――鶯は、ティアナを見下ろして目を細めた。
「お行きなさい。外にクラウス殿がおられる」
「え、あの……」
「その傷、早く手当をしないと危険ですよ」
早く、と促す鶯に、ティアナはマティアスの様子を見、小さく頷く。マティアスを支えて立とうとした。
が、ティアナの細腕では負傷して力の入らぬマティアスの身体を支えることなど難しい。
鶯はそれに気が付くと舌打ちして剣を収めた。手早く手印を刻んで彼女とは反対のマティアスの肩を抱えて立ち上がった。女性だとは思えない程の力にティアナは驚いた。
「早く参りましょう。ベルント殿は、およそ三十分程は動けません」
「あ、はい……!」
鶯はベルントを睨み、ティアナとマティアスの歩調に合わせてその場を離れた。
その間、ベルントは追いかけてはこなかった。何をしたのかは分からないけれど、彼女がヒノモト出身だというのなら有間のように術を扱える人間なのかもしれない。こちらに味方をする意図が掴めないけれども。
だが、ベルントに対抗出来る人間がいることはとても心強い。ひとまずは東雲鶯のことを信用することとして、闘技場の外で待っているというクラウスの元へ急いだ。
‡‡‡
闘技場を出てすぐの場所に、クラウスは焦燥の滲んだかんばせで落ち着き無く歩き回っていた。兵士達も少々気落ちした様子で俯いている。
「クラウス……!」
クラウスは彼女を振り返り、マティアスの様子に色を失った。
「ティアナ。これは一体……!」
「お願い、早く手当を! 私も手伝うから!」
「あ、ああ。だが……」
歯切れ悪く、クラウスは視線を僅かに逸らす。
兵士達も俯いて沈黙したままだ。
重苦しい空気を背負った彼らの様子に、ティアナは不穏なモノを感じた。
「……どうかしたの?」
クラウスはそこで眼鏡を押し上げ、一つ深呼吸をした。
「……すまない、俺も少し気が動転しているようだ」
そこで一旦間を置いて、彼は告げる。
――――ローゼレット城がファザーン正規軍に制圧されたと。
ティアナは理解が遅れた。目を見開いて、噛み砕くようにクラウスの言葉を反芻(はんすう)した。
それに、鶯が口を挟む。
「今、兵士は皆マティアス殿下を探しております。法王陛下を殺害した罪で」
「え――――ちょ、ちょっと待って! 法王陛下を、マティアスが……!?」
「俺にも一体何が起きているのか、さっぱりわからない。だが、城中を探しても法王陛下の姿が見当たらないんだ」
「そんな……!」
姿が見えないだけで勝手に決めつけたってこと!?
脳裏に、酷薄な笑みを浮かべたベルントの姿が浮かぶ。
これが彼の策であることは間違いないだろう。だが、どうしてこんな惨たらしい真似を……。
「ティアナ。ここは危険だ。マティアスを連れて、どこかへ逃げろ。……東雲殿も、二人のことを頼めるか」
「承知。では、マティアス殿下。今私の馬をここへ呼び――――」
「大丈夫だ、自分で、歩ける……」
「……! 止めて、無理をしないで!」
マティアスが、鶯とティアナを放してふらつきながら前へと進み出す。先程までは二人に支えられて歩いていた彼の足取りは非常に危うい。
しかも彼は再び闘技場に戻ろうとするのだ。
すかさずティアナが前に立って阻むが、乱暴に退かされる。
「俺はベルントに会う。お前は、どこか安全な場所、に――――」
――――その時である。
鶯がマティアスの背中を、傷を平手で思い切り叩いた。
マティアスが大きな呻きを上げ、その場に倒れ込む。それをティアナとクラウスが慌てて支えた。
「東雲殿、何を」
「失礼。こうした方が手っ取り早いかと思いましたので」
悪びれた様子も無く、鶯は頭を下げる。その黒曜の双眸には、微かな苛立ちが滲んでいた。
「早く、安全な場所へ。私の拙(つたな)い治癒術でも、少しは役に立ちましょう」
ティアナを急かす鶯は、マティアスの身体を片腕で軽々と持ち上げ、大股に歩き出した。
細身に見合わぬ剛力に唖然としたティアナ達は、鶯の呼びかけにはっと口を閉じた。
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