「マティアス殿下! じきにベルント卿がファザーン正規軍と共に到着するそうです」


 部屋に飛び込んできたカトライア兵に、マティアスの目が一瞬だけ喜色を滲ませた。すぐに失せてしまった瞳を細め、ゆっくりと頷いてみせる。


「わかった。アルフレート達と合流次第、一気にルナールを叩くぞ」


 カトライア兵は姿勢を正して応えを返し、きびすを返してその場を辞した。

 足音が遠退いていくのを聞き、マティアスはティアナを振り返って微笑んだ。
 部屋の中にティアナと二人きりだからか、先程一瞬でうちに隠された喜びが、今度はありありと露わとなった。


「ティアナ。少し城の中で、待っていてもらえるか。俺はベルントを出迎えてくる」

「わかった。いってらっしゃい」


 マティアスの笑みにつられてティアナも微笑み大きく頷いた。
 ベルントはマティアスにとっては大切な男だ。折角会えるのだから自分が邪魔をする訳にはいかない。
 大股に部屋を出ていく彼の背中を見送って、ティアナはくすりと笑声を漏らした。

 それからややあって、腰に提げた鞄から奇妙な音が聞こえた。
 ティアナはそれに気付いて鞄を見下ろし、首を傾けた。


「なんだろう、この音……」


 鞄を開いて、音の主を探そうとする。
 が、それは人目で確認出来た。

 鏡だ。
 ゲルダから預かっていた連絡手段の鏡が光を放っていたのだった。
 つまりは、ゲルダ達と共にルナールへ潜入したルシア達から、何か連絡があるということ。
 ティアナはすぐさま鏡を鞄から引き抜いた。

 その場で確認しようとしたけれど、この部屋ではいつ誰が来るか分からない。
 急ぎかもしれないが、仕方なく彼女は人気の無い場所へと走った。
 人が寄りつかない場所と言えば、空き部屋だ。人通りの少ない場所の部屋を選んで飛び込んだ彼女は、部屋の隅に座り込んで鏡に声を潜めて呼びかけた。


「もしもし、ルシア? エリク?」


 ややあって、鏡面が揺らぐ。ぼんやりと人影が浮かび上がり、徐々に輪郭がはっきりとしてくると、見慣れた人物の顔が現れた。


「ティアナ! 僕の声が聞こえる!?」


 厳しい面持ちの彼は、やたらと周囲を気にしながら、ティアナに早口に呼びかけてくる。


「エリク! 良かった、元気そうで。こっちも、さっきファザーンから援軍が……」

「っ……援軍が!?」


 エリクは目を剥き、悔しげに舌打ちする。前髪を掻き上げて思案するように視線をつかの間さまよわせた。
 マズいとでも言わんばかりの様子に、ティアナの胸がざわめいた。


「え? どうしたの?」


 エリクは唇を引き結んだ。心なし、青ざめているようにも思えた。
 不安を煽られたティアナは彼を問い詰めた。


「……ティアナ、その正規軍はベルントが連れてきたんだね?」

「え? うん。もうすぐ到着するって報告があって、マティアスが出迎えに……」

「なら今すぐマティアスを追いかけるんだ。ベルントとマティアスを会わせたら、大変なことになる!」


 早口に捲し立てるように言われ、ティアナは顔を歪めた。
 胸に蟠(わだかま)るモノが一気に膨れ上がったような気がする。
 何だろう……物凄く、嫌な予感がしてきた。


「……ど、どういうこと? どうして会わせたらいけないの?」

「彼は――――」


 そこでエリクははっとして右を見やって口を噤んだ。
 直後に鏡面が揺らぎ、エリクの顔が一瞬にして消えてしまう。
 それ以後は、鏡は何も映さなくなった。揺すっても、呼びかけても、反応が無い。回線は切れてしまったようだ。

 マティアスをベルントと会わせるな――――それは一体どういうことなのか。
 ルナールで、彼らは一体何を見たというのか。
 ……胸が騒ぐ。ちくちくと痛む。きゅうっと締め付けられる。
 ティアナは鞄に乱雑に鏡を戻し、駆け出した。

 エリクが言おうとしていた言葉の先を想像しては、振り払う。
 彼は何処に行ってしまったのだろう。何処でベルントを出迎えるつもりなのだろう。

 道行く兵士達に訊ねて、闘技場へ行ったことを聞き出した。
 それだけでもだいぶタイムロスしている。
 彼女は大急ぎで闘技場へ走った。



‡‡‡




 そこは、不気味な静寂(しじま)が横たわっていた。
 中央には濃紺の軍服に身を包んだ男性が佇んでいる。右手に握られた抜き身の剣は鈍く光る刀身に赤い雫をまとわりつかせ、その切っ先からその雫を落とす。
 生々しい赤の雫が血であると、ティアナは一目では分からなかった。瞬き一つして彼の足下に転がる塊を見て端が裂けんばかりに目を剥く。


「マティアス……!?」


 悲鳴のような声が、闘技場に反響した。
 直後に吹き抜けた風が土埃を纏い、切り落とされた塊の――――マティアスの長い髪が宙に舞い上がる。金糸のような一本一本は所々が赤く染まって、以前のような神々しい光は失せてしまっていた。

 マティアスは、身動き一つしない。

 ティアナは口で両手を覆い、声をひきつらせる。全身の温度が急速に下がっていくようなそんな感覚に足を震わせた。
 動かなくては。動いて彼に駆け寄らなくてはならないのに――――。

 ベルントが、右手を振り上げる。そのかんばせには、歓喜と殺意がはっきりと浮かび上がっていた。


「っ……! 止めて……!!」


 漏れた声は掠れて風に掻き消される。
 守らなければ、マティアスを守らなくては!
 直後、身体が軽くなった。ほぼ衝動的に駆け出す――――。

 ベルントはティアナの姿に動きを止めた。天に掲げた腕はそのままに、間に飛び込んだティアナをまるでゴミでも見るかのような冷めた目で見下した。


「どけ。死にたいのか」

「あなたが、マティアスを……!?」

「そうだ。私がやった」


 息を呑む。


「どうしてこんなことを……! あなたは、ファザーン王国の人間でしょう?」

「聞いてどうする? お前には関係のないことだ」


 ティアナが睨んでも、ベルントは鼻で笑うだけ。彼にとって彼女は然したる脅威でも何でもないのだ。


「それにしても、こうも簡単に背中を見せるとは、やはりお前はバルタザールとは違うな、マティアス。何故私を信用した? お前の父親なら、決して私に背中を見せることなどなかっただろう。信じられるのは己だけ。そう教えたはずだが……」


 じゃり、と小さな音でもよく響いた。
 ティアナはマティアスを振り返り、土を握り締めた右手に気が付いた。

 彼の名を呼べば、微かに肩が動く。背中を深い傷を負ってなお起き上がろうと力を込めれば、傷口から血が溢れ出す。
 ティアナは咄嗟に叫んだ。


「止めて、動かないで……!」

「逃げろ……ティアナ」


 俺のことはいい、どこか、遠くへ……。
 苦し紛れに言うマティアスに、ティアナは首を左右に振ってその身体を抱き締めた。


「そんなこと言わないで。私が……!」


 私が、守りたいのに。
 私じゃ、この人に勝てない。
 何の抵抗も出来ない。
 マティアスの為に、何も出来ない――――。

 悔しさから涙が滲んだ。

 茶番を見るかのようなベルントは、興醒めしたように笑みを消すと、吐息混じりに時間が無いと告げた。


「せめてもの餞(はなむけ)に、二人仲良くあの世へ送ってやろう」

「っ……!」


 ティアナはマティアスを抱き締めて、ぎゅうと両目を瞑った――――……。



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