咽から心臓が飛び出そう――――とは、このことを言うのだろう。
 出かけた大音声を押し止めアルフレートは背後を振り返った。

 そこには、まったき闇の化身が呆れた風情で腕組みして立っている。空気を読めと、黒曜の瞳がアルフレートを叱りつけていた。
 アルフレートは羞恥と驚きに騒がしい胸を押さえ、震えた声で謝罪した。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。今のを見られていたなんて。穴があったら入りたい。いや、掘ってでも入りたい。


「ご無礼を。普通にいちゃつかれる程度ならお暇したのですが、さすがに婚約者でない異性に手を出されますと、あの世に行った時、狭間にどのように言って取りなせば良いか分かりませぬ故」

「そ、そうか。……すまない」


 鯨から目を逸らして口を閉ざすと、鯨はアルフレートの隣に立って有間の寝顔を覗き込んだ。ふ、と息が漏れた。


「……少しは、昔よりもましだな」

「やはり、逃げていた当時は、」

「僅かな音でも跳ね起きる程、気を張っておりました。カトライアで過ごしていた為もありましょうし、アルフレート殿下のお側にいることもありましょう。……気を抜いて手を出されれば男性不信になりそうですけど」


 淡々とした言葉に責めるような刺々しい響きは無い。ただ、それでもアルフレートの後ろめたさがそのような響きがあるように聞こえさせる。
 鯨は、アルフレートが有間に想いを寄せていることに関して、反対は無いようだった。むしろ、ローゼレット城にて兵士達を集め、そこで鯨達が己の正体を明かした時に彼がアルフレートにだけ囁いた言葉が、脳裏をよぎる。それに引き上げられて、一時は奥深くへ沈んだ疑問が再び浮上した。

 アルフレートは彼を見上げ、その問いを投げかけた。


「イサ殿。あなたはローゼレット城でオレに、アリマを娶りたいのならこの忠誠を受けるように言った。それはどういうことだ」


 鯨は沈黙する。
 アルフレートを見下ろし、一呼吸置いた後に服の下に隠れた己の邪眼に触れた。


「……邪眼一族は母となる女神がいます」


――――曰く。
 母に捧げるべき忠誠の方向を違える時、必ず母の許しを請わなければならない。その為の儀式があの髪を捧げ古い言葉を滔々(とうとう)と語るというもの。
 邪眼一族が人間と夫婦になる際にも、これと酷似した儀式をしなければならない。
 女であれば夫に忠誠を尽くすという意味合いで前者の儀式で代用することが可能だ。邪眼一族の母はヒノモトに伝わる八百万の神々の中では最も厳しく、最も子供に甘い。儀式をしっかりとこなせば即座に許可するのだ。

 あの時に敢えてあの儀式をしたのは、そういった含みもあったのだ。それを知らずに、鯨の言葉と無言の圧力に自我が負けて受けてしまったのだった。
 そうまでして、アルフレートに有間を託すような真似をするのは、


「アリマの為に、か?」

「……」


 鯨は目を伏せて肯定とする。邪眼から手が離れてだらりと下がった。


「……俺は、あなたに有間を預けたら、有間の前には二度と現れない。そう決めています。有間を、狭間のように殺さない為にも」

「イサ殿。アリマをヒノモトの追っ手から守る為だと言うのなら、それはあなたがいた方が――――」

「俺が殺すのです。俺の、呪われた血が」


 鯨は魔女と邪眼の混血だ。有間とはまた違った特徴があるのだろう。魔女との混血は不慮では死なず、誰にも解けない術式を生み出す――――それは個人の才能ではなく、混ざり合った血に含まれているのかもしれない。
 鯨は目を細め、まるで自分を嘲るように笑声を漏らした。


「……今でもおかしい事象です。何もかもを知りたくて旅をしていた間は全く分からなかったことが、有間と逃げ回る日々の中で分かったのだから」

「イサ殿? それはどういう……」

「――――因果律、という言葉があります」


 因果律。
 哲学で一切のものは原因があって生じるという原理のことだ。原因が無ければ何も生じない、起こらない。
 だが、小難しい話はアルフレートはそれ程得意という訳ではなかった。頭の要る話になるのかと思わず顔を歪めると、彼は簡単に説明した。


「狭間が死んだのはその因果律を俺の血が歪めてしまったからです」


 本来あそこで向かう筈だったのは間違いなく鯨だ。だが、そこで彼は死ぬという運命になっていたのだろう。混血の血がそれを矯正させ、代わりに狭間で調整してしまったのだ。
 それは母からの《罰》。

 母の御座す世界と、魔女が力を手に入れる為に踏み入れる世界は、似て非なるものだ。
 彼女は魔女との愛は絶対に認めない。どんなに子供を愛おしく思いながらも、母の意に背いた子供は叱咤しなければならない。
 その罰が、不慮で死ねない、死ぬ場面では誰かが代わりに命を落とすというものだった。

 それでもとても甘い。
 死ねないのは不慮でだけ。言い換えれば寿命を全うすれば、自分の管轄する世界に迎え入れ、魂をその温かな胸で抱き留めてくれるのだ。
 邪眼の血が流れているのであれば、やはり魔女の血が混じろうとも、愛おしい子供であることに代わりはないのだ。

 だが鯨にとって自分の代わりに狭間が死ぬことになってしまったのは耐え難い苦痛だった。鯨の血の為だけに、子を守らなければならない狭間が殺されてしまったのだ。
 生まれを悔いたこともあったかもしれない。次に自分の代わりに有間が死ぬかもしれないと、恐怖したことがあるかもしれない。

 アルフレートは無表情に、しかし強く己を責めている鯨を見上げ、口を開いた。


「しかし、一生会わない必要は無いだろう。邪眼一族は二人だけなのだろう? それではあまりにも寂しい。……それに、イサ殿の代わりにアリマが死ぬことは有り得ない。アリマ自身の為にも、あなたの為にも、何がなんでも守り抜く。オレは、そう誓える」


 ……まあ、有間が自分を受け入れてくれればの話なのだけれど。
 未だ眠り続ける有間を見下ろし、アルフレートは表情を引き締めた。
 この問題が落ち着けば、改めて有間と対するつもりだ。今はそんな状況ではないので、ただ緊迫した空気の中側にいられるだけで十分だが、いつか――――と願わずにはいられない。


「……左様ですか」


 有間はこのカトライアで、良い人々に恵まれましたね。
 鯨は穏やかに呟いて、目をすっと細めるのだった。



.

- 89 -


[*前] | [次#]

ページ:89/140

しおり