10
それは遠い冬のことである。
雪が積もった彼女は一人の青年を見下ろしていた。
雪に半分を沈ませ仰向けに倒れている蒼空の色をそのまま染み渡らせたさらさらの頭髪を、べったりと生温い赤が汚している。
闇の女神と同じ、漆黒の瞳は光を失い、今まさに女神に根の国へと引きずり込まれようとしている。
闇の女神にこの青年を渡したのは他でもない彼女だ。
透き通った黄の双眸に感情らしい感情は無く――――否、人らしい温かみも無かった。
喘息も弱々しく、意思すらも宿らない瞳をした瀕死状態の彼に、彼女は不意に言葉を漏らす。
『ごめんな。君は彼女を肯定しているけれど、ウチには否定しか無い。彼女がひとたび強く願えば、ウチが否定する。それだけがウチの役目なのさ』
だから、ウチは君を否定する――――殺す。
彼女はくっと口角をつり上げて、きびすを返した。ひらりと振った片手には真っ黒な手袋。赤く何か文字のようなものが書かれている。
尊き色した髪と共に紺色のマフラーをたなびかせ、彼女は大股に、ざくざくと雪を踏み締め青年のもとを離れていく。
そうして唐突に青年を振り返り、呆れ返って片眉を上げるのだ。
『本当に……救いようの無い善人だ、君は』
今はもう、辛うじて倒れた人間だとしか分からぬ距離にある青年の口元。
分かろう筈もあるまいに、彼女は目を細めて、馬鹿にするように、ほんの少しだけ寂しそうに、嗤(わら)う。
それは償いからかい?
でもね、彼女と、君の想うカノジョは別人だよ。
確かに同じだけれど、違うのだよ。
『彼女に優しくしたって結局君の《罪》は拭えやしねえよ。カノジョの死を選択したのは他でもない君だ。君にカノジョの死を否定する権利なんざ、何処を探しても無ぇのさ』
淡泊に言い捨て、雪と同じ色をした髪を持つ彼女は今度こそ、青年を野晒しにして立ち去った。前方に見える知人にのんびりと片手を挙げてみせて――――。
――――雪が降る。
まるで彼女のいた痕跡を打ち消すように、彼女の《罪》を隠すかのように、純白の小さな花々は冷たくなった青年の身体に降りかかり、斑模様を作り出す。
ゆうるりと、時間をかけて雪に覆われていく青年の死に顔は、酷く穏やかだった。
緩く弧を描いた口に、伏せられ目元に影を作る長い睫毛。そこに苦悶は一切無かった。まるで、心から安堵したような、迷子を無事に親のもとへ送り出した時みたいな、和やかな笑みしか……。
‡‡‡
また、遠い日の夢を見た。
初めて人を殺した時の夢だ。
こんな状況だから、毎回そんな夢を見てしまうのだろう。
お陰様で気分はどうも、最悪だ。
有間はゆっくりと身を起こし、肩に走った微かな痛みに片目を眇めた。
……ああ、そうだった。
矢を受けて、鏃(やじり)に何かしらの毒が塗り込まれていたんだった。
テントの中には有間以外誰の姿も無い。そのことに少しだけほっとした。寝言で何かを言ったか分からないし。言っていないと思いたいが、寝ている自分の様子など分からない。
身体の調子が戻っていることから、鯨が薬を調合してくれたのだろう。多分、傷も完全ではないがある程度は癒されている。後で礼だけは言っておこう。
有間は傍らに置かれていたマフラーを首に巻いて、身形(みなり)を整えテントを出た。
すると、テントのすぐ前に鯨が立っていたから少しだけ驚いた。足を止めて少しだけ仰け反った。
「うお」
「……意外に目覚めるのが早かったな」
「何さ、それ。朝まで寝てろってか」
「お前に刺さった鏃に、筋弛緩剤の一種と他の毒を組み合わせたものが塗ってあった。解毒剤が作れぬよう、独自で調合したつもりだったらしい」
だが、すでに似たようなものを作ったことがある。
言いながら、鯨は何かを有間に手渡した。
小瓶だ。紫色の、半透明の液体がゆらゆらと波打つ。
解毒剤だ、と鯨は告げた。中途半端では後遺症が残る可能性がある為だと言う。
有間は淡泊な返事をして疑うこと無く小瓶の蓋を開けて一気に飲み下した。薬だというのに味が全く無い。水でも水らしい味わいがあるのに、それすら無いのだ。
薬を飲んだのを確認すると、鯨は有間の手から小瓶を取り上げ、親指を立てて後方を指差した。
「調子が良いなら今からアルフレート殿下のところに行くぞ。話がある」
「話?」
「ああ。……一つ確認しておくが、お前ルナールの要人に会ったことがあるか?」
有間は顔を歪めた。分かり切った質問である。
「そう言われても分からないって。ローゼレット城のお偉いさんの顔だって、クラウスさん以外全然知らないしさ。ルナールとか、行ったことも無い国の要人に会ったとか分かる訳ないだろ」
「なら、誰かにルナール出身か訊かれたりは?」
「いや、別に――――あ」
『すみませんが、もしやあなたはルナールの出身では?』
『あっ、ああ、いえ、すみません! ちょっと古い友人に似ていたものですから』
……いや、ある。それくらいなら、ある。
今まで忘れていたあの商人然としていたあの銀髪の嫌な男。
そのことを話せば、鯨は舌を打った。前髪を掻き上げて忌々しそうに眉間に皺を寄せた。
「……なるほどな。そりゃあ、あいつが気付かない筈はないか」
「え、何? 商人っぽかったけど、その人がルナールの要人だったの?」
鯨は有間を一瞥し、大仰に吐息を漏らした。
「アルフレート殿下のもとで話す。とにかく、お前は面倒なことになるぞ。覚悟しておけ」
「えええ……マジで?」
鯨の面倒臭そうな顔に、有間はぐにゃりと顔を歪めた。
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