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胸が落ち着いた。良かった。
撫で下ろすと、アルフレートが右から前に回り込んで顔を覗き込んできた。
心配そうな、不安そうな顔をぺちっと叩く。何となく、彼の顔を間近で見たくなかった。
「大丈夫。何かもう収まった」
「そうか? ……だが、万が一のこともある。そろそろ戻ろうか」
ぐっと手を引かれた瞬間、心臓が跳ね上がる。妙にひきつった甲高い悲鳴が漏れてしまった。
「どうかしたか?」
「い、いや。なんでんなかです」
アルフレートは不思議そうにしながらも、有間が歩き出せば何も言わずに足を踏み出す。
そうしながら、有間はふと両掌に疼きを感じた。
最近よく使役しているからであろうか、封印があっても活発になっている。
アルフレートに断って手袋を外した。
解放されるとより疼きが強くなる。いやに、右手の方が痒い。
掌の邪眼を見下ろせば、盛んに周囲に視線をさまよわせていた。
何かを捜すように、一つのところに焦点を定めないで絶えず動き続ける。
不審を抱いた有間は右掌を前に突き出し、周囲へ向けた。邪眼が何を捜しているのか、確かめる為である。
邪眼が疼くのは非常に不快だ。的外れな方向に向ければそれが激しくなって吐き気を催す。
よろめくとアルフレートが双肩を抱くようにして支えてくれた。
暫く邪眼で捜し続ける内に、邪眼が何を捜しているのか、漠然と分かってきた。
術がかかっている何かだ。それに未来を司る有間の右の邪眼が反応している。それは良いものではないだろう。だとすればこんな風になろう筈がない。
邪眼が周囲をしっかりと見れるようになった為か何処からか微かな術の気配を感じた。
ヒノモトの術式だ。それは分かる。けれどもそれ以上の情報が掴めない。
「どうだ、アリマ?」
「……何か、ある。それは確かなんだけど、よく分からないんだ」
微かな術式だけの気配では、警戒しようにも動きが読めない。
これが鯨なら、恐らくはしっかりと把握出来たのだろうけれど――――……。
「――――っ!」
不意に、術の気配が爆ぜた。
水素だけが満ちた密封容器の中に火の点いた線香を入れた時みたいな、一瞬の鮮烈な爆発。
そこから何かが放たれた。
細長い、何かが。
――――違う!
これは現実ではない。邪眼の未来予知だ。
有間はアルフレートの身体を突き飛ばした。
邪眼で爆発を感じた方角を見ようとして身体を捻り――――。
「っぐ!?」
「アリマ!!」
――――上腕に激痛を感じた。
後から熱が生まれ、広範囲に広がっていく。
そこを押さえれば何かが突き刺さっている。感触から察するに、矢だろう。
毒が塗られているやもしれぬと引き抜いた有間は矢を放り捨てて馬上筒を抜いた。
また襲撃されるのかと思いきや、アルフレートが有間を庇って前に立っても誰も姿を現さない。
おまけに、邪眼も今までの活発さが嘘のように沈黙してしまった。
ひとまず剣を収めたアルフレートは有間を振り返る。
「肩を見せてくれ」
促され、袖を捲り上げる。
月下に曝された傷は、貫通はしておらず、存外深くはなかった。
痛み以外に何も異変が無いことから、どうやら矢に毒は塗られていなかったようだ。
有間の袖に巻かれた護符付きの細い帯を使って傷の上辺りをキツく絞めて止血すると、アルフレートは険しい顔して矢を取り上げた。
矢羽根のすぐ下に紙のような物が結ばれてある。
「戻ろう。……歩けるか?」
「うん。何と――――」
――――か。
最後まで言えなかった。
踏み出した足から突如として力が抜けてしまったのだ。
そのまま前へ倒れ込むのを慌ててアルフレートが抱きかかえる。
「アリマ!? どうした!」
「……、……っ?」
……力が入らない。
何故だ。何故、筋肉が作用しないんだ。
意識も段々と薄らいでいく。まるで全身から筋を引き抜かれ、脳すらも持って行かれているかのような感覚だ。だが、決して痛みは感じられない。
アルフレートの声も、意識と共に、馬車にでも乗って遠退いていくかのようだ。
有間は咄嗟に何かを掴もうと手を伸ばした。けれどそれは何かに包まれ、痛いくらいに締め付けられる。
何だ、これ。
何もかもが、分からなくなっていく。
痛みすらも遠ざかっていくのだ。
自我がどんなに呼びかけようとも、意志薄弱とした頭では何故呼び止めなければならないのかも分からなくなっていく。
唯一最後までしっかりと感じられたのは手を締め付ける圧力のみ。
けれどもそれも、じきに消えて無くなってしまうのだ――――……。
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