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 有間がぐずりだしたのは約束の場所に潜んで半刻経つか経たないかという頃だ。

 体調が悪化したのか、そう思って様子を診てみるが、鯨の目にはそのようには見受けられなかった。
 けれども彼女は何かを訴えるかのように喧(やかま)しく泣き叫び、もぞもぞと身動ぎする。
 宥めても無駄だった。狭間が側にいないからだとは考えづらい。これまでも鯨が一人で面倒を見る場面はあったが、今のように父親を求めて泣くようなことは無かった。

 この状況下でこのような泣き方をされると、己の内で押し殺してきた不安がむくむくと膨れ上がってくる。まさか――――なんて嫌な予感が蘇る。
 そんなことは無い。有り得ない。
 否定する理性の影で、そっと否定する見知らぬ誰かの声に耳を塞ぐことは出来なかった。だって、無駄だもの。

 何度も囁くその言葉に反抗しつつ、鯨は有間をあやし続けた。

 けれども囁きも泣き声も、一向に止む気配を見せなくて。
 鯨は舌打ちして、森を出た。有間の様子を気にかけながら元来た道を戻った。

 理性は否定する。
 何処かそうなっているかもしれないと認めかけた自分を殺し、否定し、ひたに走った。
 有間は泣く。その声は鯨を急かすように激しさを増した。

 思い過ごしだ。
 これはただの思い過ごし。
 そうだ。
 そうなのだ。
 あいつが××訳がない。
 あいつの実力は俺が誰よりも分かっている。
 追って程度に後れを取る筈もない。

 そうだ。
 ××訳がない。
 その理由が無い。

 あいつは必ず――――。


 必ず、有間の元に戻ってくる。



‡‡‡




 視界が開けた直後に見えたのは赤だ。
 鯨は端が裂けんばかりに目を剥き、その光景を凝視した。

 そこに広がる赤は誰のものなのだろうか。
 そこに倒れる物は何なのだろうか。

 つかの間、彼は思考することを忘れた。



‡‡‡




「――――有間の父親は、そこで死んだのか?」


 マティアスの問いに、鯨は首肯した。
 長い話だった。
 彼が語るさなか、誰も一言も発さずにいた。

 狩間も目を伏せ、何を考えているのか分からない。


「狭間を殺したのは、ファザーンとヒノモトの追っ手でした。いつの間にか、結託していたらしく。ただ……その目的は、互いに教えてはいなかったようではございました」


 狭間を誰にも見つからぬ場所で弔った後、俺は狭間と代わり、故郷に戻って有間を育てることとしたのです。
 そう思い至った経緯を、彼は語らなかった。そこまで深きには触れないで欲しいと言うことなのだろう。

 マティアスは狩間を見やり、目を伏せた。


「……つまりは、有間の父親を、俺達の父が殺したようなものか」

「いや、ファザーン王はこのことを知らずにおられました。……あいつの責任と言うよりは、イベリスも狭間も、完全に俺の落ち度で命を落とした。せめて狭間だけは――――あの時囮にすべきではなかったのです。俺が行っていれば、こんなことにはならなかった。あそこで折れなければ……」


 そこで、鯨はかぶりを振る。


「いえ、俺の後悔など今は不要ですね。失礼しました」


 拱手して謝罪する彼に、エリクが口を開く。


「あなたは、僕達が憎いのでは? あなたは否定したけど、やっぱりマティアスの言う通り、ファザーン王があなたの両親も、あなたの友人も殺したようなものだ。その息子の僕達に、良い感情は抱かない筈でしょう?」

「……知らぬ王子を恨んでも詮無いことでございますれば」


 もっとも、あなた方がルナールとの戦争に有間を巻き込むというのであれば、排除するつもりではありますが。
 自分の感情と有間は別問題。
 そう断じ、鯨はマティアスを見やった。
 有間をどうするつもりなのか、視線で問う。

 アルフレートが口を開こうとすると、すかさずクラウスが止めた。

 沈黙が横たわる。
 ややあって、


「元々、俺に有間をどうこうするつもりはない。世話になった人間の友人、それだけのことだ」


 そう、髪を掻き上げながら答えた。
 邪眼一族であることも、有間から明かさない限りは伏せるつもりでいたのだ。
 ハナから彼女を巻き込もうなどという馬鹿げた考えは持ち合わせていなかった。

 ティアナがほっとしたように吐息を漏らした。
 そんなティアナの様子に、いつの間にか目を開いていた狩間が口角を弛めた。

 彼女は徐(おもむろ)に立ち上がると、「話はこれで終わりだ」と足早にリビングを出ていった。
 狩間がいればゲルダ達が怯えて上手く話せないと、気を遣ったのかもしれない。……陰に属するものしか知らないと言った彼女に、そういった面があるとは思えないけれど。

 黙って見送っていると、鯨が不意にティアナに歩み寄った。


「ティアナ……と言ったか。お前は狩間の側にいた方が良い」

「え……?」

「狩間の《否定》《拒絶》はあのチビ助の術には通用しないが、ある程度は進行を抑えてくれる。……彼女に近付けないのなら、無理にとは言わない」


 チビ助―――誰を指すかも分からない言葉に、ティアナは首を傾けた。
 が、彼女の疑問に答えるようにゲルダが噛みついた。


「ちょっと! いい加減その呼び方止めなさいよ!!」

「五月蠅い」

「うるさ……、こっの……!!」


 顔を赤く染め上げて睨めつける彼女に、鯨は片目を眇めた。


「遠戚の誼(よしみ)で彼女の頼みを聞いているだけだ。満足に魔法も使えないお前が有間まで巻き込んで……地下通路で、本気であのまま放置しようかとも思ったんだぞ。……その猫も、魂を見ているだけで気分が悪くなるしな」

「なっ!!」

「ちょっ、オレもか!? 魂に関しちゃしょうがねぇだろ!?」


 ゲルダが顎を落とす。

 シルビオもまた、青ざめた。逃げようとするが、狩間が術をかけた縄は簡単に彼らの腕を解放してはくれなかった。

 鯨は大仰に嘆息し、二人の頭を軽くはたいた。
 それからティアナを見下ろしてくる。


「どうする。取り敢えず、ゲルダ達の話はお前達が戻ってからにしてもらうが」

「え、でも……」


 指示を仰ぐようにティアナがマティアスをちらりと見やれば、彼も鯨に同意した。呪いが少しでも遅くなるのなら、それに越したことは無い。
 首を縦に振った彼女に狩間と共に戻ってくるように言って、アルフレートにも目配せをした。家の中だからと言って、彼女らに誰も付けない訳にはいかなかった。

 アルフレートは頷き、小走りに狩間を追いかける彼女の後ろについた。
 余程狩間――――否、有間のことが気がかりなのだろう。
 ティアナよりも、少々急ぎ足のようにも見えた。



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