鯨は一人、血溜まりの中に佇んでいた。
 べったりと汚れた総身がぴりぴりと痛む。骨まで痺れたようなそれに、身動きが取れなかった。

 彼の周囲には、幾つもの人間の身体が転がっていた。誰一人として生きている者は無い。

 湿った唇から漏れたのは溜息。
――――ああ、またやった。
 何の感慨も無く呟いて目を伏せる。

 鯨から二メートル程離れたところに、狭間とイベリスは立っていた。狭間は痛ましげに、イベリスは畏怖するように表情を歪めて鯨を凝視している。

 それに気付いていながら、鯨はその場から動けない。本当なら、イベリスのことを気遣って離れるべきなのだろうけれど、反動がそれを許さなかった。

 鯨は魔女と邪眼の混血である。徒人(ただびと)と邪眼の混血とは違う。
 魔女は陽に在りながら、濃い陰を持っている。しかもそれは邪眼に馴染み深い闇の世界の気だ。
 それ故に普通の混血と違い《陰交ザリ》の儀を必要としないが、その分厄介な点があった。

 魔女と邪眼それぞれの因子を受け継いだ子は、どちらにも属さない、強大過ぎる力を備えてしまう。
 それこそ、ひとたび暴走させれば国一つ滅ぶくらいに。
 その力は非常に凶悪で、ままに激しい衝動が鯨の意識を呑み込もうとする。今回も、完全に呑み込まれる一歩手前であった。我に返った今、酷い惨劇が広がっているが、それも初めてのことではない。
 鯨はまだ若い。未だ、上手く力をコントロール出来なかった。

 魔女と邪眼の混血児には、抑制する為の人格は存在しない。
 その為彼は彼自身で力をコントロールしなければならなかった。
 大昔より、魔女との混血児達が旅をするのは見聞を広める為、そして暴走させた時のことを考えてのことだった。

 暴走させずに済んだことを喜ぶべきなのか、イベリスに見せたことに罪悪感を感じるべきなのか――――。
 目を開け右腕をゆっくりと持ち上げた。少しぎこちないが、だいぶ動けるようになっている。
 最近それが短くなっていることに安堵し、鯨は足を持ち上げた。ふらひらとよろめきつつ、死体を跨いでその場を離れようと歩いた。

 けれども、まだ時間が必要だったようで。
 ふらり、と前のめりに傾いた。

 血溜まりへ倒れ込もうとしたのを、慌てて駆け寄ってきた狭間に支えられた。


「鯨、無理をするな」

「……慣れてる。お前は、女の世話でもしてろ。ありゃ、相当なショックだったんじゃねぇのか」


 イベリスのことを狭間がどれだけ愛しているか、鯨は分かっているつもりだ。
 それ故に側にいてやったらどうだと、冗談混じりに言ってやれば狭間は首を横に振った。


「今のお前を一人にしておく方が心配だ。また、刺すんだろう。治癒術をかける奴がいなくてどうする。イベリスには隠れるように言ってある」

「お前、女運無えんだから、今のうちに惚れた女はものにしとけって。俺は体調が戻ればここを離れる。俺達が邪眼一族であることがバレた以上、長居すればまた新手がやってくるだろう。狭間も……俺とは別行動で離れておけ。何ならイベリスと駆け落ちしちまうか?」

「……冗談を言う余裕はあるようだな。そこまで呑まれなかったのか」

「いや、ギリギリだ。ただ、コントロールが前よりも出来てるってことなんだろうな」


 鯨は狭間の腕を剥がし、彼の肩を押した。
 イベリスを顎で示して大股に歩き出す。当然よろめいたが、再び寄ろうとした狭間を声で制して、森の中に身を潜ませた。

 暫く歩いて見つけた洞窟へ倒れ込み、仰向けになった。


「……っあー……」


 意味も無く声を伸ばしながら、懐から短刀を取り出した。一瞬の躊躇も無く脇腹に突き立てた。
 痛みに呻く。
 表情を歪めながら彼は自身に暗示をかけるように、譫言のように呟いた。


「……今ここにあるものは全て夢。この痛みこそが現(うつつ)。現をこの痛みに感じ、自身を鎮めよ。我は二つの因子を受け継ぎ、夢現の《ハザマ》に在りし者。さらば、我が身は現ならん、夢ならん。現なる、夢なる。我が身に一の真実在り、十の理在り、百の闇在り。我が身一つ、我が身何にも交われぬと心せよ。孤立すべきと心せよ」


 そうして、そっと目を伏せる。
 彼の意識は、さほど時間もかからずして闇へと呑み込まれた。



‡‡‡




 目が覚めた時、目の前に白いカーテンがかかっていた。
 うっすらと目を開けて呻くと、カーテンが揺らめく。所々が裂けて――――それが毛髪であると、ややあって知った。

 瞼を完全に押し開くと丸い紫色の瞳が大きく見開き、笑みに目元が押し上がる。
 その顔には見覚えがあった。
 上体を起こせばその瞳の持ち主――――イベリスは鯨の肩を押して無理矢理に寝かせた。


「まだ寝ていて下さいまし。だいぶ、血を流されていましたから」

「……何であんたが」

「狭間さんと一緒に付いてきたんです。私の所為で、あんなことになってしまったのだし……」


 自らの衣服で鯨の顔に付いた血を拭う。仕立ての良い服が勿体ないのかと問えば、「今はあなたのことが最優先です」とキツめに言われた。


「あれは、本当にすみませんでした。秘密にしていたつもりなのですが、どうやら私の連れに尾行されていたようでして、狭間さんとの会話を聞かれていたんだと思います。私の不注意でご迷惑を……」

「一緒にいた狭間が気付かなかったのなら、相手が上手だっただけだろう。それよりも、あんたは今は俺と一緒にいない方が良い。匿うのなら狭間だけにしろ。俺はこれからここを発つ」


 イベリスの手を剥がして立ち上がれば、イベリスは慌てて鯨を呼び止めた。

 が、鯨は止まらない。
 足早に洞窟を出た。

 洞窟の外には狭間がいた。見張っていたのだろう。鯨が出てきたことにさして驚いた風も無く「行くのか」と静かに問いかけてきた。
 それに、即座に頷く。


「じゃあな、狭間。お前のことは彼女が匿ってくれるそうだ。暫くしてほとぼりが冷めたら様子を見に来るから、それまで生きてろよ。ルナールに捕まるんじゃねぇぞ」

「待て。オレも行くに決まっているだろう。そう言う約束だ」


 惚れた女より友情を取るってどうなんだ。
 義理堅い彼に鯨は辟易しつつ、その肩を軽く叩いた。


「じゃあな、相棒。また会う日まで、な」

「待て、い――――」


 鯨は片手をひらりと振って、駆け出した。



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