麗らかな小春日和の空の下。
 鯨は自身の名を呼ぶ声に意識を引き上げられた。
 ゆっくりと瞼を押し上げれば、こちらの顔を覗き込む少年の顔があった。花弁を攫っていく風に、亜麻色の髪がさらさらと揺れる。

 鯨と目が合うと、金色の双眸が細まった。本来は黄色だけれど、透き通っている為に金色に見えてしまうその双眸は、一族の中でも大変珍しかった。


「鯨、寝過ぎだ」

「別に良いだろ? 急ぐ旅じゃねぇんだしよ」


 少年は、呆れたように溜息をついた。


「……つい先日、近くの村で流行病にかかった奴が悠長なことだな。先程様子を見てきたが、あれは動物にもかかるらしい。オレ達が寝泊まりしてる森の狼達に、良く似た症状が出始めている。オレ達もそろそろ別の場所に移動した方が良さそうだ」

「あー……狭間、まだ俺ちょっと怠いかも」

「嘘を付くな面倒臭がるな」

「いててててっ」


 少年――――狭間に耳を摘まれて無理矢理起こされてしまう。
 鯨は上体を起こして彼の手を振り払い耳を押さえた。容赦が無かったのでとても痛かった。

 恨めしそうに狭間を見上げると、彼は片眉を上げて悲しげに苦笑めいた微笑を浮かべていた。
 鯨の心中など、長い付き合いになる彼にはお見通しなのだろう。
 肩をすくめて鯨は立ち上がった。


「鯨。村の者達はオレ達のことを気遣ってお前の治療を拒否したんだ。仮に治せたとしても、それが村人達の意思。お前が気に病む必要は無い」

「わーってるよ。俺のは結局、押しつけに過ぎない。治療したとて、病魔の根本が近くの山に生えた毒樹だってんなら、もう遅かれ早かれこの周辺の土地は死ぬ。村人も、余所に移る程の体力も無いだろう。結局俺のしようとしたことは無駄な行為だったんだ」


――――毒樹。
 このヒノモトではそんな、厄介極まる樹木が存在する。
 毒樹とは文字通り毒の樹液を持つ、一種の妖(あやかし)であった。
 この種類はとても特殊であった。その土地に充満した亡霊の恨み辛みを受けた植物の種子が、代々その怨念を継いで毒樹となる。
 が、ただ継ぐだけでは毒樹にはならない。
 放たれた種子が芽吹いた場所にも深い怨念が籠もっていなければならない。それも何代も何代もかけて蓄積されて毒を生成するのだ。

 或いは椎、或いは松、或いは野花と、一定の植物で現れるものではない。

 古より鬼と並ぶ驚異とされた毒樹への対処法は、まだ確実なものが無かった。
 燃やせば周囲に気化した毒が巡り、吸った生き物を悉く瞬殺する。
 切り倒せば切り株から毒の樹液が染み出し、腐葉土に浸透していく。また、切り株から新たな毒樹が生まれる。
 枯らす為に如何な薬を用いても、毒樹には効果がまるで無い。
 自然に枯れるまで待つ他無いのだ。

 幸いにも、毒樹は生殖機能が著しく低下するので種子が出来ることは滅多に無い上、寿命も五年と短い。

 近隣に毒樹が生えた場合、そこから半径二キロ圏内の村は立ち退き、約二十年、毒樹の毒に冒された土地が元に戻るまで帰ることが出来ない。

 この近くの山に生えた毒樹の発見は遅れてしまった。人が入れぬ奥まった場所の断崖に生えたが故のことだった。
 それが、こんな事態を呼んでしまったのである。

 この土地に暮らす者達はもう余所に移動することも許されないだろう。流行病がより拡大するだけだ。
 毒樹によって広められた病は、今のところ鯨の作った薬以外に効く物は無い。
 だからこそ、鯨もここに留まって彼らの病を治そうとしているのだった。

 だが、狭間はそれを止める。
 他でもない、鯨の為に。

 無駄だとは鯨だって分かっている。
 二十年もこの場所にいられない。
 自分達は、一つところに滞在してはならないのだ。

 鯨は狭間を仰ぎ、はあと長々と嘆息した。


「……分かった。行く。近くの川で禊ぎしようぜ。そっから、術で身体を保護すれば濃い毒も持ち出せない。狭間、お前は身体に異常は無えのか?」

「ああ。お前が術で保護してくれているからな」


 狭間は生まれつき病弱だった。
 身体は屈強であれど、人に比べて免疫力が圧倒的に弱いのだ。
 鯨の薬で何とか補えていてもこうした場では真っ先にやられてしまう。

 立ち上がった鯨は狭間の首に指を当てて脈を測った。
 狭間は、鯨よりも頭一つ分低い。この身長の所為で、寡黙で大人びていても、鯨と同い年として見られることはほぼ皆無であった。


「脈は安定しているな。毒圏内から出たらまた診察してやる。何か身体に変化があったら絶対に隠すんじゃねえぞ」

「分かっている」


 狭間は頷いた。


「んじゃ、行くか。これ以上いれば俺がまた駄々こねちまいそうだ」

「それは困るな。お前が流行病にかかるのを見るのは辛い」

「お優しいこって」


 ぱしんと頭を叩けば背中を軽く殴られた。

――――そも、狭間が鯨の旅に同行したのは彼が強く願った為である。
 故郷の外は敵ばかり。そんな中鯨を一人で行かせることに不安があったのだろう。
 鯨がどんなに行っても当時十五だった彼は絶対に共に行くと言って聞かなかった。

 だが、こうして旅をして二年――――特殊な術を扱う鯨にも劣らない彼の術士としての実力には何度も助けられている。
 今では鯨にとって何よりも心強い相棒となっていた。故郷を去る時、断らなくて良かったと心から有り難く思う。


「あの峠を越えればファザーンだ。ファザーンに至れば、毒樹の毒も届かないだろうが……大丈夫か?」

「オレのことなら気にするな。山登りは得意だったろう。峠くらい何ともない」


 狭間は苦笑し、「さっさと行くぞ」と鯨を追い越した。


「方向音痴が先に行くんじゃねぇよ」

「おい、誰が方向音痴だ」


 ……故郷を出てから今に至るまでに二十三回はぐれて遭難した奴は何処のどいつだ。



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