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 首を捉えられ視界が回転する。
 どうと地面に押し倒されて一瞬だけ息が詰まった。
 大きく吸い込もうとした空気は強い圧迫感に思うように肺に行かなかった。

 有間は片目を眇めて狭間を睨め上げた。
 圧迫感は有間の呼吸を奪う。
 けれども――――やはり狭間の目に明確な殺意は無いのだ。
 彼は有間が了承するのを待っている。

 何なんだよ本当に!!
 腹の底から煮えたぎるような怒りが生じ、有間は舌打ちした。

 瞬間、狭間がはっと目を丸くして有間から飛び退いた。何かを察知して警戒したかのように、彼の動きは俊敏だった。

 理由は分かる。
 有間の思考が《切り替わりかけた》からだ。
 有間は、真実激怒すれば目の色が変わる。が、変わるのはそれだけではない。

 狭間はその厄介さを知っているから、有間が目の色を変える前に離れたのだった。

 さすがに、有間もティアナ達がいることを思い出して深呼吸を二度して立ち上がる。
 それから馬上筒を構えた。

 が――――その前に狭間の背後に誰かが立ったような気がして、えっとなった。

 まさかアルフレート、か……?
 いや、幾ら何でも早過ぎるんじゃ――――。

 その人物は、すぐに知れた。


「……っ」


 狭間がその場から飛び退いた。
 彼にしては珍しく驚愕している。

 それ程の人間がこの場にいただろうか?


「は……?」


 呆気に取られた。
 思わず馬上筒を取り落としてしまう。

 これは……どうしたことだ。
 馬鹿な、有り得ないだろう!
 有間もまた、そこに立っている《彼》に顎を落とした。


「……え、りく」


 拙く、《彼》の名前を呼んだ。

 《彼》の口角が、つり上がる。



‡‡‡




「怪我は無かった? アリマ」


 有間の前に立ってにこやかに問いかけてくるエリクの瞳に宿る鋭利な光に怯みそうになる。
 一瞬これが誰なのか、疑ってしまった。

 だって、魂が変わっているのだ。
 魂にかかっていた膜はしかし、今は綺麗に剥かれたように失せている。
 ということは、今そこにいる本来在るべき姿という訳で。

 けれどこんな冷たい人間が、エリク?
 まるで逆ではないか。

 有間が取り落とした馬上筒を拾い上げた彼はだらりと垂れた手にしっかりと握らせる。

 そんな彼に、有間は薄く口を開いた。


「どういう……」

「それは、言えないんだ」


 ごめんね、と囁くように言って、彼は狭間に向き直る。


「消えてくれないかな。これ以上アリマとティアナに危害を加えるようなら、容赦は出来ないよ」


 常時の彼とは似ても似つかない低い声に冷気を纏わせて、狭間に告げる。

 狭間は暫し沈黙し、やがて身を翻して姿を消した。

 ややあって、有間はほうと吐息を漏らす。
 されど問題はこれで終わってはいない。

 駆け出してティアナの拘束具を全て外し、有間はエリクを振り返った。
 もう一度魂を見ても、マティアス達(人間時)と同じ、極普通の人としての魂の形だった。

 ……さすがに、こうも真逆の性格であることには驚いたが、冷静に考えてみれば何かしらの理由があるから、性格を変わっているのだろう。そうするだけの事情が彼にはあるのだ。

 本人は訊かれたくないようではあるので、まあ気にしてもどうにもならない。
 有間は暫し沈黙し、彼に確かめた。


「エリク。取り敢えず、今の君を《本来のエリク》と見なせば良いんだね」

「……うん。でも、そう思える?」

「魂を見る限り、今の方が違和感が無い。そっちの事情も、訊かれたくないのなら、今は訊かないでいとくよ。確かに凄く驚いているけれど、君の魂が妙ちくりんだったのが納得出来てちょっとすっきりしてるから、今はそれで満足しとく。それよりもまずは、ティアナを連れて帰ろう」


 以降、有間はもうエリクについて追求しなかった。エリクの望むように。
 エリクはすっと目を細めた。


「ありがとう。……それと、これは誰にも言わないで」

「了解……っと、ほら、ティアナ」


 有間はティアナの手を引いて立ち上がらせ、肩をすくめて見せた。


「ティアナ、歩ける?」

「う、うん……でも、良いの?」

「エリクが訊いて欲しくないなら、訊かなくて良いんじゃん? それに、実際エリクには助けてもらったし。礼儀は大事だよ」


 ぽふぽふとティアナの頭を撫でて、有間は歩き出す。
 彼女の言葉に、ティアナも少しだけ考えて、こくりと頷いた。

 しかし、エリクはいつまで経っても歩き出さない。


「……? エリク?」

「ごめん。その前にちょっとだけ待っててくれるかな」


 彼は弾丸に貫かれたカスパルを抱き上げて、ポケットから袋を取り出しその口へ穴を向けた。

 すると、そこから銀色の粉が流れ落ちてくるではないか。恐らくは、あれがエリクを変えた要因だったのだろう。

 彼は袋の中に粉を入れてしまうと、その中から粉を掬い上げて自身に振りかけた。

 目映い光が一体を照らす。金色の粉をかけた時と似たような現象だった。

 やがて光が収まると、その場に座り込んだエリクが呆然とこちらを見つめている。
 ティアナが有間の手を解いて駆け寄った。


「エリク!」


 ティアナに手を借りて立ち上がったエリクは周囲を見渡し、こてんと首を傾けた。


「あ……ティアナ。あれ? あの男の人は?」

「え……覚えていないの?」

「何が?」


 きょとんと首を傾ける彼に、ティアナは困惑する。
 それを眺めて、有間はそっと歩み寄った。


「何とか、追っ払ったよ。怪我が無いようで何よりだ。ごめんね。うちをおびき寄せる為の餌にされたみたい。それに流れ弾で縫いぐるみも損傷が出ちゃったし。後でティアナに直してもらって」

「うん……もう、大丈夫なの? アリマも、怪我は無い?」

「うちは強いからね」


 暗闇で見える筈もないのに両手を広げてアピールすれば、エリクはほっと安堵する。


「良かった……。じゃあ、帰ろ!」

「うん。ティアナ」

「う、うん……」


 未だ不安そうな彼女の背中を叩き、有間は再び歩き出す。

 本来のエリクの姿よりも気にかかる、父の言葉を脳裏に反響させながら。



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