5
「アリマ!!」
怒鳴りつけるような声に、有間は弾かれたように顔を上げた。
視界に灰色が飛び込んだかと思えば血相を変えて腹を見下ろす。
「腹を怪我したのか……誰にやられた!?」
怪我――――そういえば、そうだった。
やおら見下ろして赤いそこを撫でる。
が、不可思議なことに痛まない。いつの間にか、痛みは消えていた。脹ら脛もだ。
脹ら脛にもそっと触れて――――えっとなった。
穴が空いてない……?
いやそんな筈はない。
確かに、あの時貫通した筈だ。
だのに傷が塞がっている。
脹ら脛を見やればそこには血がべったりと。だがやはり怪我は無かった。
咄嗟に服の穴から指を入れて貫かれた腹を触った。
「――――無い」
そこにも、怪我は無かった。
「……何、で」
父は殺すつもりが無かった?
これは脅しか?
有間をルナールに関わらせない為の。
――――何故?
「アルフレート、アリマの様子は?」
ティアナが怖ず怖ずと問いかける。泣きそうな顔をしていた。その後ろにはマティアスと、険しい顔をしたクラウスがいる。
有間はアルフレートが答えるよりも先に立ち上がって「傷が治ってる」と脹ら脛を示して見せた。
そして、……ふとその感覚に青ざめる。
忘れていただけで、それはまだちゃんと残っていたようだ。
袖で剥き出しの手を隠しつつ、口を押さえてその場にうずくまる。
「アリマ!? ど、どうしたの? もしかして何か……」
「……吐きそう」
「吐きそう? ――――って、そっちなの!?」
そっちでした。
心の中で、言葉を返す。
‡‡‡
城のトイレを借りてすっきりとした有間は、腹を撫でながらクラウスと共に庭園を歩いていた。
ティアナ達は先に帰っているらしい。クラウスが家まで送るからと納得させたようだ。
城のトイレで手袋――――ティアナが曖昧に誤魔化してクラウスに渡しておいてくれていた――――を装着している為、袖に隠す必要も無い。クラウスに借りた外套を腰に巻き付けてべったりと汚れた部分を隠しつつ、クラウスに先程の歌のこと、自分が庭園で襲われた時のことを所々ぼかしながら説明した。
「多分、うちが手紙について調べたことを何らかの方法で知ったんだろうね。邪眼一族なら、何が出来ても不思議じゃない」
「そうか。……なら、お前が襲われたのは俺の所為、ということだな」
「すまなかった」頭を撫でられ、有間は顔を歪めた。
「別に気にしなくて良いよ。邪眼一族だって知ってたら、うちだってもっと上手くやれてた。……喧嘩売られた以上はうちだってやり返さなきゃ問屋が卸さない。絶っっ対、うちが潰す」
はっと鼻を鳴らし、口角を歪めてみせる。
だが、心の中はまだ揺れる。
ティアナ達と、狭間――――彼女の天秤はまだ定まらなかった。
ぐらりぐらりと揺れては均衡を保つ。どちらにも下がらない。
決めなくてはいけないのに。
決められない。
「んじゃ、また何かあったら協力させて下さいな。そん時は絶対にヘマはしやせんぜ」
軽快なステップでクラウスから離れた有間は、「ここで良いです」と走り出した。
クラウスの制止の声も聞かずに庭園を駆け抜ける。
そのまま、何処かに気分転換に向かおうとした。キンバールトの森でも良いし、ただぶらぶらと町を歩くのでも構わない。少しでも考えられなくなれば、それで――――。
「アリマ」
「のわぁ!?」
花のアーチから出た瞬間アルフレートが右側にいて、思わずその場から跳び退いた。
すると彼が慌てたように謝罪する。
「すまない。驚かせるつもりはなかったんだが」
「い、いや……つか、何でここに」
「お前の様子が気になってな。ティアナもエリクも、泣いて心配していた。本当に何ともないのか?」
有間は首肯する。
貫かれた脹ら脛を示し、理由は分からないが怪我は治っていたのだとだけ教えた。
「服が一着駄目になったけど、傷は治ったしティアナも無事だし。そんなに気にしなくて良いよ」
ぽんと肩を叩けば、彼は承伏しかねるような顔をする。
されども、
「――――で、それって後付けだよね?」
にっこりと笑って問いかければ、彼は途端に顔を強ばらせた。
「いや、それは……」
「あ・と・づ・け、だよね?」
「……まあ、な」
降参したように、アルフレートは白状した。
ティアナ達とはぐれ、迷った挙げ句ここに辿り着いたとそういうことらしい。
最初からそういえば良いのに。
「道を覚えるのが苦手なんだ……」
恥ずかしそうに俯き加減に呟くアルフレートに、有間は苦笑する。
「別に気にしなくて良いのに。分からないなら人に訊けば良いんだよ……ほら、そこに兵士もいるしさ」
ついと欠伸をする衛兵を指差す。平和だ。
この光景が近々失われるかもしれないと思うと、何となく勿体ない気もする。
天秤が、揺れる。
自分はどちらを取るべきなのか。
まだ分からない。
庭園を見渡して目を細めると、アルフレートがふと城の方へ顔を向けた。
「アルフレート?」
「誰かがこちらへ来るようだ」
「クラウスさんじゃないの?」
「いや、違う。あれは――――」
確かに、全体的な色合いはクラウスとも違っていた。
クラウスよりもだいぶ年上らしいその男性は、駆け足にこちらにやってくる。
さらさらとしたブロンドの髪を一部後頭部で括り、右の髪一房を三つ編みにしている軍服姿のその男性は、アルフレートの前に立つと相好を崩した。
「アルフレート殿下。よくご無事で……!」
「ベルント。まだ城に残っていたのか」
ベルント。
確かマティアスが口にした人名だった筈。
この人が……。
「知らせを受け、引き返して参りました」
「そうか……。お前には毎度苦労ばかりかけて、すまないな」
ベルントは苦笑した。
「正直に申せば、気の休まる暇がありませんでしたが、ディルク殿下も皆さまの無事な姿を早く確認したいと……」
新しい人名である。
聞き覚えがあるような無いようなどちらともいえない感覚に唇を歪めつつ、有間は記憶を手繰った。
――――ああ、そうだ。
第五王子の名前だ。ロッテとティアナの話に出てきていたんだった。
「近頃は、心配のあまり食事も喉を通らないご様子でしたが、殿下の無事が耳に入ればお心も安らぐでしょう」
「そうだな。オレも一度、ディルクに顔を見せてやりたいが……」
「やはりアルフレート殿下も、ここに留まるおつもりですか」
「ああ。今、マティアスの側を離れるわけにはいかない」
アルフレートの言葉に、ベルントは口角を弛めた。最初からそのように答えることが分かっていたかのようだ。
ベルントはアルフレートに恭しく頭を下げ、足早に立ち去った。彼も忙しい身の上なのだろう。それに加えて、そのディルクと言う王子にこのことを早く知らせたいのだ。
「あの人が、マティアスが言ってたベルントって人?」
「ああ、そうだ。ベルントはファザーンの宰相で前王バルタザールの片腕だった」
二十年前ルナールからカトライアを守った英傑。
剣の腕は今もなお大陸一だそうで。
つまりはアルフレートよりも強いってことか。
じゃあ父さんとベルントさん、戦ったらどちらが強いんだろう。
そんなことを考えながら、有間は歩き出した。
「んじゃ、帰ろうか。アルフレートもいなくなってたら、ティアナがまた心配するよ」
「ああ。そうだな」
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