※注意



 馬車から降りた有間は即座にその場に座り込んだ。アルフレートに手を貸してもらって何とか立ち上がった彼女は、彼に寄りかかっていなければまともに歩けなかった。
 彼らの話は全く耳に入らず、取り敢えず寝たい、そればかりだ。

 ようやっと帰ることになったらしく、アルフレートがゆっくりと身体の向きを変えてくれる。抱き上げようとしたがやんわりと断った。


「だ、大丈夫? アリマ」

「世界がぐるぐる……」

「……とにかく座らせた方が良いだろうな」


 アルフレートが背中に手を添えたその直後である。


 雪月花 雪月花

 下駄の鼻緒が 千切れた おのこ

 青いおなごさ 雪女

 昔のお話 哀れな話


 歌声が、聞こえた。



‡‡‡




 雪月花 雪月花

 六花諸手に 踊る おなご

 あかいおのこさ 恋心

 二人の恋慕は 遠いお話


「え、歌?」

「――――」


 有間はアルフレートから離れて周囲を見渡した。
 吐き気など嘘のように、五感が敏感になる。
 この歌声、この歌、は……。


「……雪月花」


 雪女と男の、冬と春だけの悲しい恋物語。
 邪眼一族に伝わる一番古い歌だ。
 それを知っている人間なんて一人しかいなくて。

 城の入り口でもある庭園へ目を向けた瞬間、黒い影と一羽の鳥を見つけた。それは迷路の中に紛れ込みあっという間に見失ってしまう。

 父さん、と無意識のうちに呟いて有間は駆け出した。


 雪月花 雪月花

 桜に混じった おのこの涙

 荒んだおなご 今は亡く

 哀れな妖 おかしな末路


 歌は止まない。
 まるで誘うように、歌だけははっきりと有間の耳に届く。

 迷路の中に紛れ込むと耳鳴りがする。
 瞬間空気が変わった。

 振り返れば常と変わらぬ庭園。
 だが、有間には空間を遮断されたのだと分かった。

 結界の一種だ。
 手袋を剥がそうとし、はっとする。
 ここでは使えない。遮断されているとは言え、ここは外なのだ。誰の目があるともしれない。
 ルナールの間者も潜んでいる可能性もある。
 舌打ちして外しかけた手袋を戻した。

 周囲を見渡しながら、父の気配を探す。

 下手すれば、父が有間をここに隔離してマティアス達に何かを仕掛ける――――なんてことも有り得る。
 父の術には誰も敵わない。彼は迅速に術式を組み立て、正確に、威力を落とすこと無く相手にかけるのだ。
 そこに有間がいなければ――――。


「アリマ!!」

「は?」


 背後から袖を掴まれて咄嗟に振り払った。
 が、目を瞠った。


「ティアナ!?」


 思わずまじまじと見つめ、ティアナの魂を調べる。……本物だった。


「な、何でティアナが……え、一人?」

「ううん。アルフレートとマティアスが後ろに――――」


 ティアナが振り返った先には誰もいない。
 ティアナは頓狂な声を上げた。


「そ、そんな! 確かに一緒に来た筈……」

「……無力なティアナだけ、許可したってことか」


 どうせティアナ(いっぱんじん)には何も出来ないと分かってのことだ。
 有間は歯噛みし、再び手袋に手をやった。


「アリマ!? ここ外よ!?」

「ティアナまで入って来ちゃったんなら仕方ないだろ。ティアナだけでも早めにこの空間から出さないと」

「どういうこと?」

「ここ、父さんが作った結界の中ね」


 右手の手袋を外し、ティアナに手渡す。
 左手も外した。


「な……じゃあ、さっき父さんって言ったのって」

「歌聞こえただろ? あれ邪眼一族に古くから伝わる歌なんだ。知ってるのはもううち以外には父さんしかいない」


 ぎょろぎょろと不快感。
 有間は芝生に両手を突いて目を伏せた。
 何事か呟けば、彼女を中心に円を描くように、線が、不可思議な文様が光となって浮かび上がる。風は無いのに、髪が、衣服がはためいた。

 細い光は七色に変化する。
 ティアナはその光に目を奪われた。


「……午は参の弐乗、次いで艮(うしとら)は伍……午は乾と結合……後、巳(み)に移動し邪と結合、眼の上に載せ――――」


 有間が何を言っているのか皆目分からない。
 これは邪眼一族の術式の一部だ。
 彼女はこの結界に扉を作ってティアナを逃がすつもりであった。完全に解くことは不可能であるから、結界は壊さず一部だけ、それも父が修正するのに時間がかかるくらい複雑に構築して――――。

 後少し……!
 有間の声が、僅かに上擦った。

 刹那である。


「うっ」


 衝撃。


 目を開く。


「――――え……?」


 感じたのは異物感だ。
 腹に何かが在る。

 ……否、貫通している?

 ティアナが悲鳴を上げた。

 見下ろせば、自分の腹を、地面から突き出した木の根が貫いていて。何本もの細いそれが絡み合った凶器に、血が伝っていく。


 自分の、血が――――。


「アリマ!!」

「っ来るな!!」


 また、衝撃。
 今度は脹ら脛だ。

 痛い。

 だがそれよりもティアナだ。
 自分よりも彼女が危うい。

 限界まで首を巡らせて、彼女を振り返った直後である。


「っティアナ!! 離れろ!!」

「え?」


 後ろに、黒。
 黒い烏(からす)。

 ティアナは背後を振り返って短い悲鳴を上げた。


「ひっ」

「ティアナ!!」


 たまらず身体を起こせば傷口から血が溢れ出た。

 立ち上がって激痛に座り込んでしまう。


「……っ、」


 ティアナに触るな、と怒鳴った。
 が、彼は――――父狭間は有間を一瞥すると、


「クラウス、と言ったか。あの男に伝えおけ。有間をルナールに関わらせるなと」

「は……?」


 ティアナを害する素振りは無く。
 彼は指を鳴らすと姿を消した。

 空気が、変わる。
 鼻孔に入り込んだのは薔薇の濃厚な香りだ。この香りはずっとしていたのに、新鮮なように思えてしまう。
 今のは何だ。
 夢? ――――いいや、違う。

 有間は茫然と、狭間が立っていた場所を凝視した。



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